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第6話勝てば勝つほど、兄が遠くなる黄瀬川の対面と腰越状

兄・頼朝の挙兵を聞いて駆けつけた義経は、生まれて初めて会う兄と涙を分かち合う。だが平家を滅ぼすほど勝ち続けた弟を待っていたのは、兄のもとへ通じない閉ざされた道だった。

19ページ全話無料・会員登録なし

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次回予告 · 制作中第7話 堀川夜討 ―静の機転―

「兄が送った暗殺者。気づいたのは、英雄ではなく恋人だった」

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この話のもとになった神話

義経と頼朝の対面・腰越状のあらすじ|義経記をわかりやすく解説

第6話のもとになった「義経記」のあらすじ

伊豆に流されていた源頼朝は、治承四年(1180年)、妻の父である北条時政らに支えられて、平家を倒すために兵を挙げました。はじめは石橋山の戦いで負けて、海を渡って安房へ逃げます。その後、関東の武士たちを集め直して、鎌倉を本拠地にしました。義経記はこのあたりを短くまとめているだけで、細かい流れは鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』などから知られています。

そのころ義経は、奥州平泉の藤原秀衡のもとで暮らしていました。兄が兵を挙げたと聞いた義経は、すぐに関東へ向かうことを決めます。秀衡は家来の佐藤継信・忠信の兄弟を供につけて送り出しました。義経は駿河にある頼朝の陣にたどり着き、兄弟はここで生まれて初めて顔を合わせます。二人とも涙を流しました。対面した場所は「黄瀬川(今の静岡県沼津市のあたり)」とするのが一般的ですが、書物によって書き方が違うともいわれます。

このあと義経は、平家を討つ軍の大将として都へ上ります。木曾義仲を討ち、一ノ谷・屋島・壇ノ浦で勝ち続けて、ついに平家を滅ぼしました。ただし義経記は、これらの有名な合戦をほんの短く語るだけです。この物語が力を入れて描いているのは、勝った後に起きた兄弟のすれ違いのほうです。

腰越状とは? 鎌倉に入れなかった義経の手紙

都で義経の評判が高まると、頼朝の家来の梶原景時が、義経のことを頼朝に悪く告げ口しました(これを「讒言」といいます)。頼朝は弟を疑うようになります。義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を連れて鎌倉へ向かいますが、鎌倉の手前の腰越(今の神奈川県鎌倉市)で止められ、鎌倉に入ることを許されませんでした。

そこで義経が、頼朝の側近の大江広元にあてて書いた手紙が「腰越状」です。義経記はこの手紙の全文をのせています。主な内容は、①罪がないのに告げ口のせいで兄に会えない悲しみ、②父を亡くし、母に抱かれて大和へ逃げてから続いた、つらい流浪の日々、③戦場で命を惜しまず戦ったこと、④五位尉という官職をもらったのは源氏の家の名誉だと考えていること、⑤神社の誓いの紙に、裏切る心がないことを書いて差し出したこと、などです。

しかし頼朝の怒りはとけず、義経は兄に会えないまま都へ戻ります。こうして兄弟の仲は決定的に壊れ、物語は義経が追われる身になっていく後半へと進んでいきます。

この話の背景 なぜ兄弟はすれ違ったのか

頼朝と義経は、どちらも源義朝の子です。でも母親が違い、平治の乱で父が負けたあと別々の場所で育ったので、大人になるまで会ったことがありませんでした。『吾妻鏡』には、対面のとき頼朝が、昔の源義家のもとへ弟の義光が駆けつけた例を思い出して喜んだ、と書かれています(義経記にも同じ場面があるかどうかは、確かめが必要です)。

頼朝は、鎌倉で武士たちをまとめる立場にありました。そのため、家来が自分の許しなしに朝廷から官職をもらうことを、とても嫌ったと考えられています。一方の義経は、官職を家の名誉だと受け止めていました。二人の考え方のずれが、梶原の告げ口で一気に広がったともいえます。なお、告げ口の原因として、屋島での「逆櫓」をめぐる梶原と義経の言い争いがよく知られていますが、これは『平家物語』に出てくる話で、義経記の筋とは別のものです。

漫画版で変えたところ・足したところ

原典にあるのは、対面で二人が涙を流したこと、梶原の告げ口、腰越で止められたこと、腰越状の中身、そして兄に会えずに都へ帰ったことです。漫画では、対面の場の陣幕や季節、二人の表情や最初に交わす一言、奥州から駿河までの道中を、物語をわかりやすくするために描き足しています。

一ノ谷・屋島・壇ノ浦を振り返る見開きの場面や、佐藤継信が屋島で倒れる場面は、義経記にほとんど描写がないため、絵の組み立てや演出は漫画のオリジナルです。梶原が告げ口する場面のセリフや、腰越で何日も待つ義経の姿も創作です。また、腰越状を書いた場所を満福寺とするのは後の時代の言い伝えです。「閉ざされた鎌倉の門」も、兄に近づけない義経の気持ちを表した比喩で、原典に門が閉じられたという場面はありません。

漫画で読むには

文字だけで読むと少しむずかしい腰越状も、漫画なら義経の表情と一緒に、その切なさがまっすぐ伝わってきます。「義経伝説 ―牛若丸と弁慶―」は全話無料、会員登録なしで読めます。第6話で兄弟の再会とすれ違いを見届けたら、義経が追われる身になっていく次の話へも、ぜひ進んでみてください。

この話の登場人物

源義経(みなもとのよしつね)
頼朝の異母弟。平家を滅ぼすほど勝ち続けたが、告げ口のせいで兄に疑われ、腰越状で自分の真心を訴える。
源頼朝(みなもとのよりとも)
義経の兄。伊豆で兵を挙げて鎌倉を本拠にし、弟を涙で迎えるが、のちに義経を鎌倉に入れなかった。
梶原景時(かじわらのかげとき)
頼朝の家来。義経のことを頼朝に悪く告げ口し、兄弟の仲を裂くきっかけを作った。
大江広元(おおえのひろもと)
頼朝の側近。腰越状のあて先で、義経が兄への取り次ぎを頼んだ相手。
藤原秀衡(ふじわらのひでひら)
奥州平泉の主。義経を守り育て、出発のときに佐藤兄弟を供につけて送り出した。
佐藤継信・忠信(さとうつぐのぶ・ただのぶ)
秀衡がつけた兄弟の家来。兄の継信は義経に従って戦い、屋島で命を落とす。

よくある質問

腰越状とは何ですか?

源義経が、鎌倉の手前の腰越で止められたときに、頼朝の側近・大江広元にあてて書いた嘆願の手紙です。自分には兄を裏切る心がないことや、幼いころからの苦労、戦場での働きを訴えています。義経記には、この手紙の全文がのっています。

義経と頼朝はどこで初めて会ったのですか?

駿河国の頼朝の陣で、場所は黄瀬川(今の静岡県沼津市のあたり)とするのが一般的です。ただし、書物によって地名の書き方が違うともいわれます。二人はこのとき初めて顔を合わせ、涙を流しました。

頼朝はなぜ義経を鎌倉に入れなかったのですか?

義経記では、梶原景時の告げ口を信じて、頼朝が弟を疑ったことが理由とされています。歴史的には、義経が頼朝の許しなく朝廷から官職を受けたことへの怒りも大きかったと考えられています。

腰越状はいつ書かれたのですか?

『吾妻鏡』では、元暦二年(1185年)五月二十四日の日付になっています。壇ノ浦の戦いで平家が滅びてから、約2か月後のことです。

義経記とはどんな本ですか?

源義経の一生を描いた軍記物語で、室町時代に作られたと考えられていますが、作者はわかっていません。合戦の場面は短く、牛若丸時代の話や、兄と対立して追われる後半の話を中心に描いています。

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