この話のもとになった物語
信長の抹香投げとは?大うつけ時代のあらすじ|信長公記
ひとことで言うと: 「信長の抹香投げ」は、父・織田信秀の葬儀で、若い織田信長が仏前に抹香をつかんで投げつけた出来事です。家臣の太田牛一が書いた『信長公記』の首巻に記されています。町で「大うつけ」と笑われた信長は、その一方で馬・水泳・弓・鉄砲の稽古に打ち込んでいました。守役の平手政秀は、信長のふるまいが改まらないのを嘆いて腹を切りました。
元の話のあらすじ①「大うつけ」と呼ばれた若き信長
『信長公記』は、信長に仕えた太田牛一が、のちにまとめた記録です。最初の巻(首巻)に、若いころの信長の姿が書かれています。信長は16〜18歳ごろまで、ほかの遊びはせず、朝と夕方に馬の稽古をしました。3月から9月までは川で泳ぎました。弓は市川大介、鉄砲は橋本一巴、兵法は平田三位に習い、鷹狩りもしました。
竹槍で叩き合う稽古を見て「槍は短くては悪い」と言い、三間(約5.4メートル)や三間半もある長い柄の槍に揃えさせた、という話もあります。遊んでいるように見えて、戦いの道具を自分の目で確かめていたのです。
ところが、身なりはとても型破りでした。袖を外した湯帷子(ゆかたびら)に半袴をはき、腰には火打袋などをいくつもぶら下げていました。髪は茶筅髷にして紅や萌黄の糸で巻き、朱色の鞘の大刀を差していました。町では人目を気にせず栗や柿や瓜をかじり、立ったまま餅を食べ、人に寄りかかったり肩にぶら下がったりして歩きました。そのため人々は信長を「大うつけ」(大ばか者)と呼んだのです。
元の話のあらすじ② 父の葬儀での抹香投げ
父の織田信秀(備後守)が病気で亡くなると、万松寺に大勢の僧を集めて葬儀が開かれました。亡くなった年は原典の書き方に揺れがあり、天文20年とする説と21年とする説があります。
信長は、荒縄で巻いた長い柄の大刀と脇差に茶筅髷、袴もはかない姿で現れました。仏前に進むと抹香をつかんで投げつけ、そのまま帰ってしまいます。弟の勘十郎は、きちんとした肩衣と袴を着て、礼儀正しくふるまいました。家中の人々は「やはり例の大うつけだ」とうわさしました。
ただ一人、筑紫(今の九州)から来ていた旅の僧だけは「あの人こそ国を持つ人だ」と言った、と記されています。
元の話のあらすじ③ 守役・平手政秀の死
平手政秀は信長の守役で、知恵の回る家老でした。美濃の斎藤道三の娘と信長の縁組をまとめたのも、平手の働きです。しかし、平手の子の五郎右衛門が、信長に欲しいと言われた馬を断ったことから、信長と平手家の仲は悪くなりました。
やがて平手は、信長のふるまいが改まらないのを嘆いて腹を切ります。信長は政秀寺という寺を建てて、平手を弔いました。この寺を開いた僧は沢彦です。
この話が伝えていること(時代の背景)
戦国時代の武家では、跡継ぎがどんな人物かによって、家臣や一族の行く末が大きく変わりました。礼儀正しい弟と比べられる信長の姿は、家中に不安を広げたと考えられます。
『信長公記』は、信長がなぜこんなふるまいをしたのかを説明していません。そのため「本当にうつけだったのか、わざとだったのか」は、今も人によって受け取り方が分かれます。同じ記録の中に、熱心な稽古の様子とうつけぶりが並んで書かれていることが、この場面を味わい深くしています。
漫画版で変えたところ
漫画では、年をとった太田牛一が若いころを思い出しながら書き始める、という語りの枠を加えました。若い弓衆の牛一が、夜明けに一人で鍛える信長を見てしまう場面も、漫画で作ったものです。
抹香を投げた瞬間の信長の気持ちは原典に書かれていないので、セリフにはせず、表情と沈黙で表しました。平手の遺書は原典にはっきり書かれていないため、短い脚色にとどめ、史実としては描いていません。このほか、腹を切る場面の様子、信長が平手の死を知ったときの反応、町の人の陰口、川での水泳や槍の稽古の細かいところ、政秀寺を建てる場面での信長の表情も、漫画で描き足した部分です。縁組・葬儀・自害の順番は原典どおりです。
漫画で読むには
第1話「父の葬式で、お香を投げつけた男 ―大うつけ・信長の抹香投げ―」では、町じゅうに笑われる若殿と、その素顔を見てしまった記録係の目を通して、この有名な場面を描いています。Manga Portalの『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』は全話無料で、会員登録なしで読めます。あらすじを知ったうえで、「この男はただのうつけか」という問いの答えを、漫画でも確かめてみてください。
この話の登場人物
- 織田信長(おだ のぶなが)
- 尾張の織田信秀の嫡男で、型破りな身なりとふるまいから「大うつけ」と呼ばれながら、馬や鉄砲の稽古には打ち込んだ若殿。
- 織田信秀(おだ のぶひで)
- 信長の父で尾張の有力な武将。病気で亡くなり、万松寺で大がかりな葬儀が行われた。
- 織田勘十郎(おだ かんじゅうろう)
- 信長の弟。父の葬儀で礼儀正しくふるまい、兄と比べられた(信勝・信行とも呼ばれる)。
- 平手政秀(ひらて まさひで)
- 信長の守役で知恵の回る家老。斎藤道三の娘との縁組をまとめたが、信長のふるまいを嘆いて腹を切った。
- 筑紫の客僧(つくしの きゃくそう)
- 葬儀に来ていた旅の僧。皆が信長を笑う中、ただ一人「国を持つ人だ」と評した。
- 太田牛一(おおた ぎゅういち)
- 信長に仕えた家臣で『信長公記』の著者。漫画では、思い出を語る語り手として登場する。
よくある質問
信長はなぜ「大うつけ」と呼ばれたの?
袖を外した湯帷子に茶筅髷という型破りな身なりで、町なかで栗や柿をかじったり、人の肩にぶら下がって歩いたりしたからです。『信長公記』には、その一方で馬・水泳・弓・鉄砲などの稽古に熱心だったことも書かれています。
信長の抹香投げとはどんな出来事?
父・織田信秀の葬儀で、信長が袴もはかない姿で現れ、仏前に抹香をつかんで投げつけて帰った出来事です。家中は「例の大うつけ」とうわさしましたが、旅の僧の一人だけは「国を持つ人だ」と言ったと記されています。
平手政秀はなぜ切腹したの?
『信長公記』では、信長のふるまいが改まらないのを嘆いたためとされています。その前には、平手の子と信長が馬をめぐって仲たがいしたことも書かれています。遺書の中身などは、原典でははっきりしません。
『信長公記』とはどんな本?
信長に仕えた太田牛一がまとめた、信長の生涯の記録です。首巻には、若いころの「大うつけ」ぶりや父の葬儀の様子が書かれています。
信長は本当にうつけだったの?
原典は理由を説明していないため、受け取り方は人によって分かれます。ただ、同じ記録に熱心な稽古や長い槍の工夫も書かれていて、ただのうつけではなかったと読む人も多い場面です。
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