この話のもとになった神話
正徳寺の会見とは?信長と道三の対面のあらすじ|信長公記
ひとことで言うと: 正徳寺の会見は、「大たわけ」とうわさされる娘婿・織田信長の本当の姿を確かめようと、美濃の斎藤道三が尾張の富田にある正徳寺で信長と会った出来事です。信長は風変わりな格好で現れた後、寺で正装に着替えて道三たちを驚かせます。道三は帰り道で、いずれ自分の子どもたちは信長に従うことになるだろうと見抜きました。太田牛一『信長公記』の首巻に書かれている話です。
正徳寺の会見とは(いつ・どこで・だれが)
正徳寺の会見は、戦国時代に美濃(今の岐阜県南部)を治めていた斎藤道三と、尾張(今の愛知県西部)の若い当主・織田信長が初めて顔を合わせた出来事です。信長は道三の娘を妻にしていたので、二人は舅と婿の関係でした。この縁組は、信長の家老・平手政秀が知恵をしぼってまとめたものだと『信長公記』の別の条に書かれています。
会見の場所は、尾張の富田という寺内町にあった正徳寺です。原典によると、富田は大坂の本願寺に連なる寺の町で、美濃と尾張の両方から特別な許しを得ていた土地でした。時期は四月下旬です。年は天文22年(1553年)とする説が広く知られていますが、首巻の年の書き方ははっきりしないところがあるため、断定はできません。
原典『信長公記』のあらすじ
道三のまわりには、信長を「大たわけ(大ばか者)」だと言う人がたくさんいました。それでも道三は「あれはたわけではない」と言い続けていました。そこで本当はどうなのかを自分の目で確かめようと、正徳寺での対面を申し入れます。信長はためらわずに引き受けました。
道三は信長を驚かせてやろうと、昔ながらの正式な服を着た年配の家臣七、八百人を寺の縁側にずらりと並ばせます。自分は町はずれの小さな家に隠れて、やってくる信長の行列をのぞきました。信長は髪を茶筅髷に結い、袖を外した湯帷子を着て、腰には火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、虎と豹の毛皮の半袴をはいていました。まるで猿回しのような姿です。ところが、そのうしろには長さ三間半(約6メートル)の朱色の長槍およそ五百本と、弓・鉄砲五百挺が続いていました。
寺に着いた信長は、屏風で囲いをつくらせ、その中で髪を折髷に結い直し、ひそかに用意していた褐色の長袴と小刀を身につけます。信長の家臣たちは「これまでのたわけぶりは、わざとだったのか」と肝をつぶしました。信長は道三の家臣にせかされても知らん顔で柱にもたれていましたが、道三が現れて堀田道空に紹介されると、ひと言「であるか」と答えて礼をし、対面は無事に終わりました。
帰り道、道三の家臣・猪子兵介が「やはり信長はたわけでした」と言うと、道三は「だから悔しいのだ。わしの子どもたちは、いずれあのたわけの門前に馬をつなぐ(家来になる)ことになるだろう」と答えました。それからは、道三の前で信長をたわけと呼ぶ者はいなくなったといいます。
この話が伝えていること(時代の背景)
戦国時代は、親子や親せきの間でも油断できない時代でした。隣り合う国どうしの縁組は、仲直りや同盟のしるしでした。道三が婿の器を見極めようとしたのは、美濃の将来がかかっていたからだと考えられます。
この話の見どころは、見た目と中身のちがいです。だらしなく見える格好の下で、信長は長い槍と鉄砲をそろえた強い軍勢を用意していました。人の評判ではなく自分の目で確かめようとした道三と、相手の予想を軽々と越えた信長。二人の知恵比べが、のちの天下取りを予感させる場面として語りつがれてきました。
漫画版で変えた・足したところ
原典に書かれているのは、道三が隠れてのぞいたこと、信長の姿と着替え、「であるか」のひと言、湯漬けと盃、帰り道の会話といった出来事だけです。漫画では、道三がのぞきながら感じたこと、会見の席での細かなやりとり、信長が着替えを決めた理由や心の中を、物語として新しく描いています。
ほかにも、縁側に並ぶ老臣たちの様子や行列の音、町の人の反応、黙って帰る道三の表情や景色を絵で表しました。平手政秀が縁組をまとめた場面は回想として描いていますが、政秀が自害した理由は「信長をいさめるためだった」という通説があるだけなので、漫画でも決めつけていません。また、道三の「マムシ」というあだ名はこの条には出てこない後の時代の呼び名です。人物の顔立ちは原典に記述がないため、新しくデザインしています。
漫画で読むには
『戦国 侍列伝 ―天下を賭けた男たち―』第1話「マムシが笑えなくなった日」では、のぞき見る道三の緊張と、屏風の陰からの早変わりの瞬間を、漫画ならではの迫力で味わえます。あらすじを知ってから読むと、信長のひと言の重みがいっそう伝わるはずです。Manga Portal では全話無料・会員登録なしで読めるので、気軽にページをめくってみてください。
この話の登場人物
- 斎藤道三(さいとう どうさん)
- 美濃の主で信長の舅。まわりが信長をばかにしても「たわけではない」と言い続け、正徳寺での会見で自分の目で確かめようとする。
- 織田信長(おだ のぶなが)
- 尾張の若い当主で道三の婿。風変わりな格好で「大たわけ」とうわさされるが、会見では強い軍勢と正装への早変わりで周囲を驚かせる。
- 堀田道空(ほった どうくう)
- 道三方の取次役。信長に早く出るようにうながし、道三を引き合わせ、湯漬けを出す。
- 春日丹後(かすが たんご)
- 道三の家臣。堀田道空とともに、柱にもたれる信長に早く出るよう声をかける。
- 猪子兵介(いのこ ひょうすけ)
- 道三の家臣。帰り道で「やはり信長はたわけ」と言い、道三の予言めいた言葉を引き出す。
- 平手政秀(ひらて まさひで)
- 信長の家老。知恵をはたらかせて信長と道三の娘の縁組をまとめたが、会見の前に自害している。
よくある質問
正徳寺の会見はいつ行われた?
『信長公記』では四月下旬とされています。年は天文22年(1553年)とする説が広く知られていますが、首巻の年の書き方にははっきりしないところがあります。
斎藤道三はなぜ信長に会おうとしたの?
まわりの多くが信長を「大たわけ」と言う一方で、道三は「たわけではない」と考えていました。本当はどちらなのかを自分の目で見極めるために、対面を申し入れたのです。
信長の「であるか」とはどんな場面の言葉?
道三が姿を見せ、堀田道空が「こちらが山城殿(道三)です」と紹介したときに、信長が返したひと言です。そのあと信長は礼をして座敷に座り、会見は無事に進みました。
会見のあと、道三は信長をどう評価した?
帰り道で家臣が「やはりたわけでした」と言うと、道三は、自分の子どもたちはいずれ信長の家来になるだろうと悔しそうに答えました。それ以後、道三の前で信長をたわけと言う者はいなくなったといいます。
斎藤道三はなぜ「マムシ(蝮)」と呼ばれるの?
「マムシ」は後の時代に広まった呼び名で、『信長公記』のこの会見の場面には出てきません。一般には、策略をめぐらす油断ならない人物だったことからそう呼ばれる、と説明されることが多いです。
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