原典について
信長公記 ―織田信長の生涯―
- 地域
- 日本
- 成立
- 慶長15年(1610年)ごろ
- 作者・編者
- 太田牛一(信長の家臣)
- 原語
- 近世の日本語
尾張の織田信長は、袖を外した湯帷子に茶筅髷、瓜をかじりながら町を歩く「大うつけ」。父・信秀の葬儀では仏前に抹香を投げつけ、守役の平手政秀は諫めて自害する。だが舅となる美濃の斎藤道三は、聖徳寺の会見で信長の長槍と鉄砲の備えを見て、その器を見抜く。弟・信勝との家督争いを制して尾張をまとめた信長は、永禄3年、数万の今川義元軍を「人間五十年」の舞いから飛び出した少数の兵と急雨の中の奇襲で討ち取る(桶狭間)。美濃を奪い、足利義昭を奉じて上洛した信長に、義弟・浅井長政の裏切り(金ヶ崎)、姉川の激戦、比叡山の焼き討ち、将軍の追放と次々に試練と決断が続き、浅井・朝倉の首を金で飾る宴で家臣を凍らせる。長篠では千挺の鉄砲と柵で武田騎馬軍を打ち破り、琵琶湖畔に前代未聞の天主を持つ安土城を築き、海の向こうから来た黒い肌の家臣・弥助を迎える。武田を滅ぼし富士を眺めて凱旋したわずか数か月後、天正10年6月2日未明、京の本能寺を明智光秀の軍勢が囲む。「是非に及ばず」――信長は弓を取り、槍を取り、炎の奥へ消えた。
この漫画は AI(台本・作画)で自動生成しています。登場人物・出来事は原典に基づく部分と創作部分があります。