この話のもとになった物語
鈎の陣とは?甲賀忍者の夜討ちと『万川集海』のあらすじ
ひとことで言うと: 鈎の陣(まがりのじん)は、長享元年(1487年)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を攻めて鈎(今の滋賀県栗東市)に陣を置いた戦いです。忍術書『万川集海』は、この戦いで伊賀・甲賀の者たちが目覚ましい働きをし、それから「伊賀者・甲賀者」の名が天下に知られるようになったと伝えています。
原典『万川集海』に書かれていること(あらすじ)
『万川集海(ばんせんしゅうかい)』は、伊賀の藤林保武がまとめた忍術書で、序には延宝四年(1676年)と記されています。伊賀と甲賀には、忍びの術の流派がいくつも伝わっていました。保武はそれらを集めて一冊にし、「たくさんの川が一つの海に流れこむ」ように諸流をまとめたという意味をこめて、この名前をつけたと序で述べています。
巻一の序と「忍術問答」は、問いと答えの形で進みます。保武がくり返し言うのは、忍びは盗みのような卑しい術ではない、ということです。忍びは、将の知恵と正しい心(正心)に支えられ、国を守るための兵法の一つだと説いています。
この問答の中で、保武は伊賀・甲賀の忍びが有名になった由来にふれます。長享年中、将軍足利義尚が近江の佐々木六角高頼を討とうとして、鈎に陣をかまえました。このとき伊賀・甲賀の者たちが目覚ましい働きをし、それから世の人が「伊賀者・甲賀者」の名を重んじるようになった、というのです。ただし原典が述べるのはこの由来だけで、夜討ちの細かい様子や、その後の将軍の運命までは書かれていません。
歴史と伝承から見た鈎の陣
ここからは原典の外の話です。歴史の通説では、将軍の大軍が近づくと、高頼は本拠の観音寺城を捨てて甲賀の山の中へ退き、そこから抵抗を続けたとされます。
甲賀の側には、地元の武士(地侍)たちが昼は姿を隠し、夜になると将軍の陣に忍びこんで火を放ったり、兵糧をうばったりして大軍を苦しめた、という言い伝えがあります。ただしこれは甲賀側の伝承や後の時代の通説で、『万川集海』に書かれた場面ではありません。
陣は長引き、義尚は長享三年(延徳元年・1489年)、鈎の陣中で病気のため亡くなりました。これは史実ですが、原典には書かれていません。また、このときの働きから「甲賀二十一家」「甲賀五十三家」といった家の格が生まれたという話もあります。これも甲賀側に伝わる後の時代の伝承で、『万川集海』の記述として扱うことはできません。
この話が伝えていること(時代の背景)
鈎の陣が起きたのは、応仁の乱のあと、将軍の力が弱まり、各地の大名が自分の力で動き始めた時代です。義尚が自ら軍を率いて出陣したのには、将軍の威信を取り戻したいという思いがあったと考えられています。
そんな大軍を、山を知りつくした土地の人々が苦しめた、という話は、「数や力ではなく、知恵と工夫で戦う」忍びのイメージの出発点になりました。保武が『万川集海』を書いたのは、戦乱が終わった江戸時代の初めです。忍びを「正しい心に根ざした兵法」として書き残そうとした背景には、自分たちの技と誇りを後の世に伝えたいという気持ちがあったのかもしれません。
漫画版で変えたところ・足したところ
漫画の第1話では、臆病だけれど耳だけはいい甲賀の若者ゲンタが主人公です。ゲンタの名前や家、性格、成長はすべて漫画のための創作で、原典には個人の名前は出てきません。
敵陣の床下にひそむ場面、夜討ち・付け火・兵糧をうばう作戦の段取り、山の中の隠れ家の様子、疲れていく将軍の兵たちの姿も、漫画で描き足したところです。義尚の病気を陣が長引いたことと結びつけ、実際には約2年かかった出来事を短い期間にまとめて描いています。
さらに、老いた藤林保武が灯明の下で物語を語り起こす「枠」の演出も創作です。保武の姿や書斎の様子は原典からは分からないため、漫画のために考えたものです。忍びの道具や装束は、時代考証から外れない範囲でデザインしています。
漫画で読むには
「殺さぬ。眠らせぬ」――大軍を相手に、甲賀の若者たちが一夜をどう戦い抜いたのか。文章だけでは想像しにくい夜の陣の緊張感を、漫画ならひと目で味わえます。
『忍者列伝 ―風魔・伊賀・甲賀の影―』はManga Portalで全話無料、会員登録なしで読めます。この記事で背景を知ったうえで、忍びの名が世に出た最初の夜をのぞいてみてください。
この話の登場人物
- 藤林保武(ふじばやし やすたけ)
- 伊賀の藤林氏の流れを引く人物で、伊賀・甲賀の忍術をまとめた『万川集海』の編者。漫画では物語の語り手として登場します。
- 足利義尚(あしかが よしひさ)
- 室町幕府の九代将軍で、六角高頼を討つため自ら出陣し、鈎に陣を置きました。史実では1489年にこの陣中で病死しています。
- 佐々木六角高頼(ささき ろっかく たかより)
- 近江の守護で、将軍に攻められた側の人物。通説では甲賀の山の中へ退いて抵抗したとされます。
- 伊賀・甲賀の者たち
- 鈎の陣で目覚ましい働きをし、忍びの名を天下に広めた人々。原典には個人の名前は出てきません。
- ゲンタ
- 漫画オリジナルの甲賀の若者。臆病だけれど耳がよく、敵陣の床下で息をひそめます。
よくある質問
鈎の陣とはどんな戦い?
長享元年(1487年)、将軍足利義尚が近江の六角高頼を討とうとして、鈎(今の滋賀県栗東市)に陣を置いた戦いです。陣は長引き、義尚は1489年に陣中で亡くなりました。
忍者が有名になったきっかけは鈎の陣なの?
忍術書『万川集海』は、鈎の陣での伊賀・甲賀の者たちの働きによって、その名が天下に知られるようになったと述べています。ただし忍びの起こりについてはほかにも説があり、これが唯一の始まりと言い切れるわけではありません。
『万川集海』とはどんな本?
伊賀の藤林保武がまとめた忍術書で、序には延宝四年(1676年)と記されています。伊賀・甲賀に伝わる忍術の諸流を集めたもので、忍びは正しい心に根ざした兵法だと説いています。
甲賀忍者の夜討ちは本当にあったの?
甲賀の地侍が夜に将軍の陣へ忍びこみ、火を放ったり兵糧をうばったりしたという話は、甲賀側の伝承や後の時代の通説として伝わっています。『万川集海』には、そのような具体的な場面は書かれていません。
甲賀二十一家・甲賀五十三家とは?
鈎の陣での働きから生まれたと言われる、甲賀の有力な家々の呼び名です。甲賀側に伝わる後の時代の伝承で、『万川集海』に書かれた話ではありません。
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