第12話打たなければ、主君が捕まる如意の渡し(弁慶、義経を打つ)
実の兄に追われた義経たちは、山伏に姿を変えて北へ向かう。如意の渡しで正体を疑われた主君を救うため、弁慶は人前で主君を扇で打つ。主君を打ったその手が、雪の山で生まれた小さな命に握られる。



















最後まで読んでくれてありがとう!
「死んでも、倒れなかった」――最強の家臣が見せた最後の忠義。
実の兄に追われた義経たちは、山伏に姿を変えて北へ向かう。如意の渡しで正体を疑われた主君を救うため、弁慶は人前で主君を扇で打つ。主君を打ったその手が、雪の山で生まれた小さな命に握られる。



















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「死んでも、倒れなかった」――最強の家臣が見せた最後の忠義。
この話のもとになった神話
兄の源頼朝と対立し、都にいられなくなった判官義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼ることに決めます。妻の北の方(久我大臣の姫君)も一緒に行きたいと強く願い、義経は迷いながらも連れて行くことにしました。弁慶の提案で一行は羽黒山伏の姿になり、北の方は稚児(寺に仕える少年)の姿に装います。
一行は大津から舟で湖を渡り、険しい愛発山を北の方をかばいながら越えて、北陸道へ入ります。越前の三の口の関では関守に止められますが、弁慶が「自分たちは羽黒の山伏だ」と堂々と言い張って通り抜けました。平泉寺を見物したときも怪しまれかけますが、どうにかやり過ごします。
越中の如意の渡では、渡守の平権守が「判官殿が通るという知らせが来ている」と舟を出し渋り、一行の一人を義経ではないかと疑います。すると弁慶は義経を舟から引きずり下ろし、「お前のせいで人に怪しまれるのだ」という調子で罵りながら、扇で何度も打ちすえました。家来が主君を打つはずがないと考えた渡守は疑いを解き、舟を出します。向こう岸に着くと、弁慶は主君を打ったことを嘆いて義経の袂にすがって泣き、義経も家来たちも一緒に涙を流しました。義経は弁慶をとがめず、その機転を受け入れます。
越後の直江の津では、宿で土地の者たちに笈(背負う道具箱)の中を調べられ、北の方の化粧道具などが出てきてしまいます。しかし弁慶がうまく言いつくろい、神仏の罰をちらつかせて相手を引き下がらせました。やがて出羽の亀割山で北の方が産気づき、山の中で若君が生まれます。一行はさらに平泉を目指して進んでいきます。
弁慶が主君を打って疑いを晴らす話と聞くと、歌舞伎『勧進帳』の安宅の関を思い浮かべる人が多いでしょう。けれども、関守の富樫、何も書いていない巻物を勧進帳として読み上げる場面、金剛杖で打つ場面、延年の舞は、能『安宅』や歌舞伎の中で作られたもので、義経記には出てきません。義経記で弁慶が義経を打つのは越中の如意の渡で、使うのは扇です。のちの芝居は、こうした義経記の逃避行の話をもとに生まれたと考えられています。
義経記は作者がわからない軍記物語で、室町時代の前期から中期にかけてまとまったとされます。平家との合戦よりも、牛若丸と呼ばれた少年時代や、兄に追われて奥州へ落ちていく後半生をくわしく描いているのが特徴です。山伏は山で修行しながら各地の霊場を巡る修行者で、旅をしていても怪しまれにくい姿でした。
如意の渡の場面が伝えるのは、主君を守るためなら主君を打つという罪さえ引き受ける家来の覚悟と、それをとがめずに受け止める主君の信頼です。追われる身の義経を気の毒に思い、肩を持つ気持ちは「判官びいき」という言葉にもなり、こうした場面が人々に長く愛されてきました。
原典では、三の口の関・如意の渡・直江の津は別々の章で、あいだに平泉寺の話なども入ります。漫画では、この三つの難所を一話の流れにまとめ直しました。関守や渡守の顔立ち・年齢・話し方、北陸の雪や海・川・山の風景は、漫画のために描き込んだものです。山伏の装束(篠懸・兜巾・笈・錫杖・法螺)は、時代考証をもとにデザインしています。
弁慶が打つ前後の心の声、義経の表情や沈黙、渡ったあとの涙の場面の台詞は漫画のオリジナルです。ただし「打ったことを嘆く弁慶と、それを受け入れる義経」という原典の大切な骨組みは変えていません。亀割山の出産も、焚き火や水汲みなどの細かな段取りは創作ですが、山の中で子が生まれ、家来たちが世話をしたという大筋は原典どおりです。
第12話では、扇を振り上げる弁慶の迷いと、黙って打たれる義経の覚悟、そして主君を打ったその手が雪の山で生まれた小さな命に握られるまでを描いています。『義経伝説 ―牛若丸と弁慶―』は全話無料、会員登録なしで読めます。牛若丸と弁慶の出会いから、ふたりの絆が試されるこの話まで、ぜひ続けて読んでみてください。
義経記の巻七にある場面で、越中の如意の渡で渡守に正体を疑われた義経を救うため、弁慶が人前で主君を扇で打ちすえて疑いを晴らす話です。渡り終えたあと、弁慶は主君を打ったことを嘆いて泣き、主従でともに涙を流します。
安宅の関で富樫を前に金剛杖で打つのは、能『安宅』や歌舞伎『勧進帳』の場面です。義経記では、打つ場所は如意の渡、使うのは扇で、勧進帳の読み上げも出てきません。
兄の頼朝に追われて、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れるためです。山伏は各地の霊場を巡って旅をするので怪しまれにくく、弁慶の提案でこの姿に決まりました。
義経記では、出羽の亀割山にさしかかったところで北の方が産気づき、山の中で若君が生まれたとされています。名前は山の名にちなんで亀鶴御前と名づけられたと伝えられます。
作者がわからない軍記物語で、室町時代の前期から中期にかけてまとまったとされます。合戦よりも、牛若丸時代と、追われて奥州へ落ちていく後半生をくわしく描いているのが特徴です。