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第9話味方か、中立か、さもなくば焼く比叡山焼き討ち

敵に陣を貸した聖なる山に、信長は「味方するか、手を出さぬか、さもなくば焼く」と告げる。一年後の夜、山は炎に包まれ、助けを願う声も届かない。老いた記録者の筆が、その夜の前で止まる。

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次回予告第10話 黄金の髑髏

新年の祝いの席に、主君は金で塗った敵の頭蓋を並べた。

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この話のあらすじ

始まりは焼き討ちの前年、元亀元年です。信長と戦っていた浅井・朝倉の軍が比叡山に上がり、山の上に陣を構えました。信長は山の僧たち(衆徒)を呼び、味方になるなら自分の領国にある比叡山の領地を元どおり返すと、武士の作法で固く誓います。さらに、出家の身で片方に肩入れできないのなら、せめて手出しをしないでほしいと求めました。そして、どちらにも背くなら根本中堂(比叡山の中心のお堂)や山王二十一社まで焼き払うと告げます。しかし山は応じず、浅井・朝倉の側につきました。 一年後の元亀2年9月12日、信長の軍は山を取り囲みます。お堂も神社も僧の住まいも経典も、一つ残らず一気に焼かれ、あたりは灰の地になりました。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

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この話のもとになった物語

比叡山焼き討ちとは?信長公記のあらすじと信長が山を焼いた理由

ひとことで言うと: 比叡山焼き討ちは、敵の浅井・朝倉軍に味方した比叡山を織田信長が元亀2年(1571年)9月12日に攻め、堂社を焼き払い、僧や逃げ込んだ人々を斬らせた事件で、太田牛一の『信長公記』巻4に記されています。信長は前年に「味方するか、手を出さずにいるか。どちらにも背くなら焼く」と通告しており、山が応じなかったため、その言葉を実行に移しました。

比叡山焼き討ちのあらすじ(『信長公記』より)

始まりは焼き討ちの前年、元亀元年です。信長と戦っていた浅井・朝倉の軍が比叡山に上がり、山の上に陣を構えました。信長は山の僧たち(衆徒)を呼び、味方になるなら自分の領国にある比叡山の領地を元どおり返すと、武士の作法で固く誓います。さらに、出家の身で片方に肩入れできないのなら、せめて手出しをしないでほしいと求めました。そして、どちらにも背くなら根本中堂(比叡山の中心のお堂)や山王二十一社まで焼き払うと告げます。しかし山は応じず、浅井・朝倉の側につきました。

一年後の元亀2年9月12日、信長の軍は山を取り囲みます。お堂も神社も僧の住まいも経典も、一つ残らず一気に焼かれ、あたりは灰の地になりました。

ふもとの人々は持ち物も持たず、はだしで八王子山へ逃げ、社の中に隠れます。兵たちは四方から声を上げて攻め上り、僧も俗人も子どもも斬って、首を信長に見せました。名の知られた高僧や、美しい女性、幼い子どもたちも捕らえられて信長の前に引き出されます。悪い僧は仕方がないが自分たちは助けてほしいと口々に願っても許されず、みな首をはねられました。数千の遺体が散らばったと、原典は伝えています。

牛一は、信長が長年の胸のつかえを晴らしたと書き、この段では、志賀郡が明智十兵衛(光秀)に与えられ、光秀が坂本に住んだことにも触れています。

なぜ信長は比叡山を焼いたのか

比叡山は、都を守る聖なる山とされてきた場所です。一方で当時の大きな寺は広い領地と武力を持ち、政治や戦にも深く関わっていました。信長にとって、敵が陣を置ける山は、信仰の場であると同時に戦の上の大問題でした。領地の返還を条件に出したのも、そうした事情を映しています。

信長が示した道は「味方」か「中立」で、中立でもよいと言っている点は見落とせません。ただ、だからといって焼き討ちが正しかったと言えるわけではありません。戦とは関わりのない人まで巻き込まれたことを、原典そのものがはっきり書いています。

記録者・太田牛一の書き方に注目

『信長公記』の筆者である牛一は、信長に仕えた人です。牛一は山の僧たちについて、出家の決まりを守らず、女性におぼれ、魚や鳥を食べ、金銀の賄賂に夢中になっていたと厳しく非難します。ただし、これは信長側の筆者による評価なので、僧たちの実際の姿をそのまま写したものとは言い切れません。

それでいて牛一は、焼かれた山や斬られる人々の場面になると、あわれみの言葉を書き、見ていられないほどの有様だったとも記します。非難と痛みが同じ段に並んでいるところが、この記録の読みどころです。

被害の大きさには、別の見方もあります。数千という数を確かめるのは難しく、発掘調査をもとに、山上の焼失は記録の印象ほど広くなかったのではないかという説もあります。

原典にはない、後世の話

佐久間信盛らが信長を諫めたという話はよく知られていますが、後世の書物に伝わるもので、この段には書かれていません。

「第六天魔王」の呼び名も、『信長公記』ではなく、宣教師フロイスの書簡に見える信玄とのやり取りの話に出てきます。焼き討ちが「魔王」の名の始まりだと原典が語っているわけではありません。

漫画版で変えたところ

信長の通告の内容は原典に沿っていますが、交渉の場の言葉づかいや表情は漫画の創作です。第9話の題にある「味方か、中立か、さもなくば焼く」も、原典の条件を短く言い直したものです。炎に包まれる夜という情景も、漫画としての見せ方と考えてください。

老いた記録者の筆が止まる場面も創作です。牛一はこの段に人物として登場しません。非難とあわれみが同居する原典の書きぶりから、その心の揺れを広げて物語にしています。

焼き討ちの当日に信長が黙っているという描き方や、それを「魔王」の始まりとする語りは、本作の解釈です。同じように、家臣や兵の動揺、名もない人々の視線やせりふも脚色で、原典の兵たちに迷いは書かれていません。経典が燃える様子は原典にありますが、炎や影などで表す残酷な場面の描き方は、漫画の工夫です。

漫画で読むには

原典では短い記述の中に収まる出来事も、漫画で読むと、通告から一年後の炎までの重さや、記録者が筆を止めるほどの夜の気配が伝わってきます。Manga Portal の『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』は全話無料で、会員登録なしで読めます。第9話が気になった方は、信長がここへ至るまでの道のりも、ぜひ第1話からたどってみてください。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
比叡山に味方か中立かを迫り、拒まれると一年後に通告どおり焼き討ちを命じた武将です。
太田牛一(おおた ぎゅういち)
『信長公記』の筆者で、僧を厳しく非難しながら、焼き討ちの場面にはあわれみの言葉も残しました。
比叡山の衆徒(ひえいざんのしゅうと)
信長の求めに応じず浅井・朝倉についた山の僧たちで、牛一からは堕落していたと記されています。
高僧・ふもとの人々(こうそう・ふもとのひとびと)
八王子山へ逃げるなどしたものの、捕らえられ、助命を願っても許されなかった人々で、個人名は書かれていません。
明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)
焼き討ちのあとに志賀郡を与えられ、坂本に住んだ信長の家臣です。
浅井・朝倉(あさい・あさくら)
前年に比叡山へ上がって陣を構えた信長の敵で、焼き討ちのきっかけを作りました。

よくある質問

比叡山焼き討ちはいつ起きた?

元亀2年9月12日(1571年)です。『信長公記』では巻4に記されています。

織田信長はなぜ比叡山を焼き討ちした?

前年、比叡山が敵の浅井・朝倉軍を山に受け入れ、信長の出した条件にも応じなかったからです。信長は、味方か中立かを求め、どちらにも背くなら焼くと事前に告げていました。

比叡山焼き討ちで何人が亡くなった?

『信長公記』は数千の遺体が散らばったと記しています。正確な人数を確かめるのは難しく、被害の広さについては発掘調査をもとにした別の説もあります。

信長が「第六天魔王」と呼ばれたのは焼き討ちのせい?

はっきりそうとは言えません。この名は『信長公記』ではなく、フロイスの書簡に見える信玄とのやり取りの話に出てきます。焼き討ちと結びつけるのは後世の見方で、漫画でも本作の解釈として描いています。

佐久間信盛が信長を諫めた話は本当?

『信長公記』のこの段には書かれていません。後世の書物に伝わる話なので、史実かどうかは分けて考える必要があります。

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