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第4話敵は四万五千、出陣はたった六騎桶狭間の戦い

四万五千の今川軍が国境の砦を呑んでいく夜、信長は家老たちに作戦を何も語らず「帰れ」とだけ言った。夜明け、敦盛を舞い、立ったまま飯をかき込み、わずか六騎で城を飛び出す。

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次回予告 · 制作中第5話 稲葉山を落とせ

7年かけて落とした城で、彼は初めて『天下』という言葉を口にした。

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この話のあらすじ

桶狭間の戦いは、永禄三年(1560年)に尾張(今の愛知県西部)で起きた合戦です。駿河・遠江・三河を治める大名の今川義元が大軍で尾張に攻め込み、迎え撃った織田信長に討ち取られました。 この戦いを伝える代表的な記録が、信長に仕えた太田牛一の『信長公記』です。その首巻にある「今川義元討死の事」が、この記事の元になっています。なお、原典は年を天文二十一年と書いていますが、これは誤りです。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

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この話のもとになった物語

桶狭間の戦いのあらすじ|信長公記の今川義元討死と六騎の出陣をやさしく解説

ひとことで言うと: 桶狭間の戦いは、四万五千と記された今川義元の大軍に対し、織田信長がわずか六騎で城を飛び出して立ち向かい、急な雨が晴れた直後に攻めかかって義元を討ち取る、『信長公記』に記された合戦の物語です。永禄三年(1560年)の出来事で、信長が勢力を広げる転機になりました。

桶狭間の戦いとは

桶狭間の戦いは、永禄三年(1560年)に尾張(今の愛知県西部)で起きた合戦です。駿河・遠江・三河を治める大名の今川義元が大軍で尾張に攻め込み、迎え撃った織田信長に討ち取られました。

この戦いを伝える代表的な記録が、信長に仕えた太田牛一の『信長公記』です。その首巻にある「今川義元討死の事」が、この記事の元になっています。なお、原典は年を天文二十一年と書いていますが、これは誤りです。

原典のあらすじ(前半)語らない夜と六騎の出陣

今川義元は四万五千の兵を率いて沓掛に陣を置きました。大高城に兵糧を運び入れ、次の朝には織田方の鷲津・丸根の砦を攻めそうだ。そんな知らせが、佐久間大学と織田玄蕃から清洲城の信長に届きます。

ところがその夜、信長は作戦の話を一切しません。世間話だけをして、夜が更けたからと家老たちを帰してしまいました。家老たちは、運が尽きる時は知恵まで鈍るものだとあざけって帰ります。

夜明け、砦が攻められたと次々に知らせが入ると、信長は動きます。まず敦盛を舞いました。人の一生を天上の時間と比べて夢まぼろしにたとえる、「人間五十年」で知られる一節です。続いて法螺貝を吹かせ、具足を着け、立ったまま食事をとり、兜をかぶって出陣します。供は小姓五人だけ。主従六騎で、熱田までの三里(約12キロ)を一気に駆けました。

午前8時ごろの熱田で東を見ると、鷲津・丸根が落ちたらしい煙が上がっていました。この時点で従うのは六騎と雑兵二百ほどです。信長は丹下砦から善照寺砦へ進み、そこで兵をそろえます。

原典のあらすじ(後半)急な雨と義元の最期

一方の義元は、おけはざま山で人馬を休めていました。砦を落としたことに満足して謡をうたわせ、織田方の佐々隼人正・千秋四郎らが三百ほどで挑んで五十騎ほどが討ち死にすると、自分の矛先には何者もかなうまいと喜びます。先鋒の家康(当時は松平元康)は大高で疲れを休めており、本戦には出ませんでした。

信長は中島砦へ移ろうとします。両脇が深田の道を一騎ずつ進めば少ない兵が丸見えだと、家老たちは馬の轡に取りついて止めますが、振り切りました。兵は二千足らず。さらに前へ出るとき、信長は全軍に語ります。敵は夜通し動いて疲れている、こちらは新手だ。少数でも大軍を恐れるな、運は天にある。首は取らずに捨て置け。勝てばここにいる者は末代までの誉れだ、と。

山際まで兵を寄せたとき、急な雨が降り出します。石や氷を投げつけるような雨が敵の顔を打ち、味方には背中から降りました。大きな楠が東へ倒れるほどの荒れ方で、人々は熱田の神の軍勢かと語ったといいます。

空が晴れると、信長は槍を取って突撃を命じました。今川勢は水をまいたように崩れ、武具も義元の塗輿も捨てて逃げます。義元を囲む旗本は三百騎ほどから五十騎ほどまで減り、信長自身も馬を下りて若武者と先を争いました。服部小平太が義元に斬りかかって膝を斬られ、毛利新介が義元を斬り伏せて首を取ります。信長は首実検を清洲で行うことにして引き上げました。

時代の背景と、諸説のあるところ

戦国時代は、大名どうしが領地を奪い合い、一度の合戦で家の運命が変わることもある時代でした。大国の当主が討たれたことは今川家に大きな痛手となり、今川方にいた松平元康も、のちに信長と手を結びます。

信長が前夜に黙っていた理由を、原典は書いていません。情報が漏れるのを警戒したという見方もありますが、確かなことは分かりません。四万五千という数も原典の数字で、実際はもっと少なかったとする説があります。また、山を回り込んで背後を突く奇襲という話が長く知られてきましたが、『信長公記』にその回り道は書かれておらず、前方から攻めかかったと見る説も有力です。

よく語られる場面にも、原典のこの章にないものがあります。立ったまま食べたものを湯漬けとするのは通説で、原典は食事としか書きません。熱田神宮で願文を納めた話や白鷺の吉兆も、この章には出てきません。

漫画版で変えたところ

大きな流れは原典に沿っています。漫画で補ったのは、原典が細かく書いていない部分です。たとえば、清洲の夜の世間話の中身(原典は世間話をしたとしか書きません)、家老たちの台詞の言い回し、敦盛を舞う所作や場面の照明と構図、六騎が駆ける道中や熱田で兵が集まってくる様子は漫画の創作です。

義元の容姿や装束、塗輿の意匠、今川本陣の様子、雨と楠が倒れる場面の迫力、乱戦での一人一人の動きも、絵にするために描き足しました。一方、なぜ語らないのかという信長の心の声は書かず、表情と沈黙で見せています。

漫画で読むには

文章で読むと数行で過ぎる場面も、絵になると緊張の重さが変わります。第4話は、四万五千の軍が砦を呑んでいく夜に「帰れ」とだけ告げる信長から、敦盛を舞って六騎で城を飛び出すまでを描く回です。Manga Portal の『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』は全話無料、会員登録なしで読めます。あらすじを知った今なら、信長の沈黙がまた違って見えるはずです。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
尾張の大名で、前夜は作戦を語らず、夜明けに敦盛を舞って六騎で出陣し、今川義元を討つ主人公。
今川義元(いまがわ よしもと)
駿河・遠江・三河の大名で、四万五千を率いて尾張に攻め込み、桶狭間で討たれる敵の総大将。
佐久間大学(さくま だいがく)・織田玄蕃(おだ げんば)
砦を守る織田方の武将で、今川勢の動きと砦への攻撃を清洲の信長へ次々に知らせる。
松平元康(まつだいら もとやす)
のちの徳川家康で、今川方の先鋒として大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根で働いたのち大高で休む。
服部小平太(はっとり こへいた)
信長の馬廻で、最初に義元へ斬りかかるが、膝を斬られて倒れる。
毛利新介(もうり しんすけ)
信長の馬廻で、義元を斬り伏せて首を取る。

よくある質問

桶狭間の戦いはいつ、どこで起きた?

永禄三年(1560年)に、尾張の桶狭間一帯で起きた合戦です。『信長公記』は年を天文二十一年と書いていますが、これは誤りです。

織田信長はなぜ今川義元に勝てた?

『信長公記』は、敵が砦の戦いで疲れていたこと、急な雨が敵の顔を打ったこと、晴れた直後に信長が突撃を命じて今川勢が崩れたことを伝えています。原因については今も研究者の間で議論があり、ひとつには決められていません。

桶狭間の戦いは奇襲だった?

山を回り込んで背後を突いた奇襲という話が長く知られてきました。ただ『信長公記』にその回り道は書かれておらず、前方から攻めかかったと見る説も有力です。

信長が出陣前に舞った敦盛とは?

「人間五十年」の一節で知られる舞で、人の一生を夢まぼろしのように短いものとして語ります。『信長公記』は、砦が攻められた知らせを受けた信長がこれを舞ってから出陣したと記しています。

今川義元を討ったのは誰?

信長の馬廻である毛利新介です。先に服部小平太が斬りかかりましたが膝を斬られて倒れ、続いて毛利新介が義元を斬り伏せて首を取りました。

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