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第3話弟を許すのは、一度だけ稲生の戦い

自分を認めてくれた妻の父・道三を失い、ひとりになった若き当主・信長。その隙に、母に愛された礼儀正しい弟が家臣に担がれて兄に背く。信長は一度は弟を許すが、二度目は許さなかった。

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次回予告 · 制作中第4話 桶狭間 ―人間五十年―

四万五千 vs 二千。うつけは舞い、湯漬けをかき込み、六騎で城を飛び出した。

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この話のあらすじ

信長の妻の父で、美濃(今の岐阜県南部)の主だった斎藤道三は、息子の義龍と仲が悪くなりました。義龍は弟二人を呼び寄せて殺し、父に背きます。弘治2年(1556年)4月、道三は長良川で義龍の大軍と戦い、討ち死にしました。信長は援軍として美濃の大良まで出ていましたが、間に合いませんでした。兵を引くとき、信長は自分で一番後ろに立って追ってくる敵を防ぎ、舟で川を渡って帰ったと書かれています。 後ろ盾の道三を失ったこの時期、尾張の中でも信長の敵が動き出します。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

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この話のもとになった物語

稲生の戦いとは?信長と弟・勘十郎の争いをあらすじで解説【信長公記】

ひとことで言うと: 稲生の戦いは、弘治2年(1556年)に織田信長が、家臣に担がれて背いた弟の勘十郎と尾張の稲生で戦った出来事です。信長は少ない兵で勝ち、母の取りなしで一度は弟を許しましたが、再び謀反を企てた弟を清洲城に呼び寄せて討たせました。太田牛一の『信長公記』首巻に書かれています。

元の話のあらすじ(道三の死から稲生の戦いまで)

信長の妻の父で、美濃(今の岐阜県南部)の主だった斎藤道三は、息子の義龍と仲が悪くなりました。義龍は弟二人を呼び寄せて殺し、父に背きます。弘治2年(1556年)4月、道三は長良川で義龍の大軍と戦い、討ち死にしました。信長は援軍として美濃の大良まで出ていましたが、間に合いませんでした。兵を引くとき、信長は自分で一番後ろに立って追ってくる敵を防ぎ、舟で川を渡って帰ったと書かれています。

後ろ盾の道三を失ったこの時期、尾張の中でも信長の敵が動き出します。岩倉の織田伊勢守が義龍と通じて信長に敵対し、さらに信長の一番家老の林佐渡守、その弟の林美作守、そして柴田権六が、信長の弟・勘十郎を担いで兄に背きました。

同じ年の8月24日、稲生で両軍がぶつかります。信長の兵は七百足らず。相手は柴田勢がおよそ千、林美作勢がおよそ七百で、信長方は初め押し込まれ、討たれる者も出ました。ところが信長が大声で怒鳴りつけると、敵兵は同じ織田家の主人の威光を恐れて立ち止まり、ついには崩れて逃げたといいます。信長は林美作守を自ら討ち取り、戦いに勝ちました。

一度目は許し、二度目は許さなかった

戦いのあと、信長は勘十郎のいる末盛城のまわりを攻めます。このとき二人の母(信長公記では「御袋様」)が家臣を通して命乞いをし、信長は勘十郎・柴田・林を許しました。勘十郎と柴田は、母と一緒に墨染の衣を着て清洲へ謝りに来たと書かれています。

しかし勘十郎は、再び謀反を企てます。岩倉と通じ、竜泉寺に城を築こうとし、若い家臣の津々木蔵人ばかりを重く用いました。軽んじられた柴田は、このことを信長に知らせます。信長は病気のふりをして城にこもり、母と柴田に勧められて見舞いに来た勘十郎を、清洲城の中で家臣の河尻らに討たせました。11月2日のことで、年は弘治3年(1557年)とされることが多いですが、別の説もあります。

この話が伝えていること(時代の背景)

当時の尾張は、同じ織田一族がいくつにも分かれて争う状態でした。家督を継いだばかりの若い当主にとって、身内や重臣が敵に回ることは珍しくありません。後ろ盾の道三が亡くなったことは、まわりから見れば信長を倒す好機でした。

稲生で敵兵が信長の一喝にひるんだ場面は、戦の勝ち負けが兵の数だけでなく、「主人に刃を向けてよいのか」という気持ちにも左右されたことを示しています。また、一度は母の願いを聞いて許し、二度目には自分から手を下したという流れは、信長が当主として家をまとめていく厳しさをよく表しています。

漫画版で変えたところ・足したところ

漫画では、作者の太田牛一を語り手にしています。牛一は信長に仕えた家臣ですが、物語の中で語る台詞は原典にはなく、結びの「殿は情けをかけた。一度だけは」という言葉も漫画の脚色です。

道三の死を知ったときの信長の表情、稲生で怒鳴った言葉の中身(原典は大声で怒ったとだけ書いています)、母が命乞いをする場面の台詞、柴田が知らせに来たときの迷い、清洲城で討たれる直前の兄弟の短い場面も、漫画で描き足した部分です。また、道三が美濃を信長に譲る書状を残したという話や、これで尾張がほぼ信長のものになったという言い方は、信長公記の本文ではなく後の時代の話やまとめのための補足です(実際には岩倉の織田伊勢守がまだ残っていました)。

漫画で読むには

Manga Portal の『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』第3話「弟を許すのは、一度だけ ―稲生の戦い―」では、ひとりになった若き信長と、母に愛された弟とのすれ違いを、原典の流れに沿って描いています。全話無料・会員登録なしで読めるので、文章で流れをつかんだあとに、漫画で場面の空気を味わってみてください。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
尾張の若き当主。稲生の戦いで弟方を破り、一度は許すが、二度目の謀反では弟を討たせる。
勘十郎(かんじゅうろう)
信長の弟で、名は織田信勝(のぶかつ)とされる。林・柴田に担がれて兄に背き、二度目の謀反のあと清洲城で討たれる。
斎藤道三(さいとう どうさん)
美濃の主で信長の妻の父。息子の義龍と争い、長良川で討ち死にする。
柴田権六(しばた ごんろく)
のちの柴田勝家。稲生では勘十郎方の大将だったが、のちに勘十郎の二度目の謀反を信長に知らせる。
林佐渡守・林美作守(はやし さどのかみ・みまさかのかみ)
信長の家老の兄弟。勘十郎を担ぎ、弟の美作守は稲生で信長に討たれ、兄の佐渡守は許される。
御袋様(おふくろさま)
信長と勘十郎の母。稲生のあと勘十郎の命乞いをする。後の時代には「土田御前」とも呼ばれる。

よくある質問

稲生の戦いとはどんな戦い?

弘治2年(1556年)8月、織田信長と、弟の勘十郎を担いだ林兄弟・柴田権六の軍が尾張の稲生で戦ったものです。信長は七百足らずの兵で、合わせて千七百ほどの相手に勝ちました。

稲生の戦いで信長はなぜ少ない兵で勝てたの?

『信長公記』によると、押されていた場面で信長が大声で怒鳴ると、敵兵は同じ織田家の主人の威光を恐れて崩れたとされます。信長自身も林美作守を討ち取りました。

信長は弟の勘十郎をどうしたの?

稲生の戦いのあとは母の取りなしで許しました。しかし勘十郎が再び謀反を企てたため、病気のふりをして清洲城に呼び寄せ、家臣に討たせました。

柴田勝家はなぜ信長の味方になったの?

許されたあと、勘十郎が寵臣の津々木蔵人ばかりを重く用い、柴田は軽んじられました。そのため柴田は、勘十郎の二度目の謀反を信長に知らせたと書かれています。

斎藤道三はどうして死んだの?

息子の義龍と仲が悪くなり、弘治2年(1556年)4月に長良川で義龍の大軍と戦って討ち死にしました。信長は援軍に向かいましたが間に合いませんでした。

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