日本語言語を選ぶ

第6話副将軍はいらない、港をくれ信長の上洛

すべてを失った貴人を担いで、信長は山の城をたった一日のうちに落とし、都を朱の長槍で埋める。本作では、伝えられる話をもとに、泣いて「父」と呼ぶ将軍が差し出した高い位を断り、港と道の町だけを望んだ男を描く。

19ページ全話無料・会員登録なし

ほかの言語で読む:English简体中文繁體中文한국어EspañolFrançais

1 / 19
2 / 19
3 / 19
4 / 19
5 / 19
6 / 19
7 / 19
8 / 19
9 / 19
10 / 19
11 / 19
12 / 19
13 / 19
14 / 19
15 / 19
16 / 19
17 / 19
18 / 19
19 / 19

最後まで読んでくれてありがとう!

次回予告 · 制作中第7話 金ヶ崎の退き口

勝利の目前、妹の夫が裏切った。天下人が生涯でいちばん速く逃げた日。

この作品はここまで。次はこちらもどうぞ

続きが出たらすぐ読めるよう、この作品のページをブックマークしておいてください: 織田信長この作品の RSS

新しい話の公開を SNS でお知らせしています。フォローしてください:ThreadsBluesky(英語)

この話のあらすじ

話の始まりは永禄8年です。将軍の足利義輝が三好・松永方に討たれ、弟で奈良の一乗院の僧だった覚慶(のちの足利義昭)は寺を脱け出します。各地を経て越前の朝倉義景を頼りましたが、朝倉氏は京へ向かう軍を起こしません。そこで義昭は信長に望みを託し、信長は迎えの使者を送りました。 永禄11年7月、信長は美濃の立政寺で義昭を迎え、銭や太刀、馬などを贈って手厚くもてなします。8月には近江の佐和山へ出向き、南近江の大名・六角承禎に協力を求めましたが、数日の話し合いの末に断られました。すると信長は9月、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて岐阜を出ます。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

RSS

この話のもとになった物語

信長の上洛とは?足利義昭を担いだ百日のあらすじ|信長公記

ひとことで言うと: 信長の上洛は、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を担いで大軍で京へ進み、義昭を将軍の座につけた出来事で、『信長公記』巻1に記されています。信長は箕作城をその日のうちに落として六角氏を退け、畿内の敵方を短い間に従えると、10月末には岐阜へ帰りました。

『信長公記』巻1に書かれた信長の上洛のあらすじ

話の始まりは永禄8年です。将軍の足利義輝が三好・松永方に討たれ、弟で奈良の一乗院の僧だった覚慶(のちの足利義昭)は寺を脱け出します。各地を経て越前の朝倉義景を頼りましたが、朝倉氏は京へ向かう軍を起こしません。そこで義昭は信長に望みを託し、信長は迎えの使者を送りました。

永禄11年7月、信長は美濃の立政寺で義昭を迎え、銭や太刀、馬などを贈って手厚くもてなします。8月には近江の佐和山へ出向き、南近江の大名・六角承禎に協力を求めましたが、数日の話し合いの末に断られました。すると信長は9月、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて岐阜を出ます。軍勢を六万ほどとする数字もありますが、『信長公記』の記述か後世の数字かは確認できていません。

9月12日、信長の軍は箕作城を攻め、午後から夜にかけての攻撃でその日のうちに落としました。これを受けて六角父子は観音寺城を捨て、夜のうちに逃げます。信長は観音寺城を手に入れ、近江の武士たちは人質を出して従いました。義昭も美濃から近江の桑実寺へ移り、二人は琵琶湖を渡って三井寺に入り、続いて京へ入ります。

その後も動きは素早いものでした。勝龍寺城の岩成友通を攻めて芥川方面へ進むと、三好長逸や細川昭元は退き、池田城の池田勝正も降ります。芥川城に入った義昭のもとには諸将が礼に訪れ、松永久秀は茶入「つくもがみ」を、今井宗久は「松島の壺」と「紹鴎茄子」を差し出して従いました。義昭は10月に将軍となり(18日とするのが通説です)、信長は10月末に岐阜へ帰ります。公記の見出しは、頼られてから百日足らずで天下を治めたという趣旨を伝えています。

「御父」の手紙と副将軍の辞退は原典にある?

この上洛の話では、義昭が信長を「御父」と呼ぶ手紙を贈った、副将軍などの位を勧められた信長が断った、位の代わりに堺・大津・草津に代官を置くことを望んだ、という話がよく語られます。ただし、どれも今回の調査では巻1の記事として確認できていません。公記の別の巻にあるのか、後世の書物が伝える話なのかも確かめきれていないため、ここでは史実と言い切らず、伝えられる話として紹介します。

信長は名誉より実利を重んじた、という見方もあります。ただし『信長公記』は人物の行動を記すのが中心で、心の中はほとんど語りません。「位より港を選んだ」というのは、原典の言葉ではなく、後の人による解釈の一つと考えてください。

信長の上洛の時代背景

上洛とは、都である京へのぼることです。将軍は本来、武士の世界の頂点にいる存在ですが、この時代には将軍その人が討たれるほど力が弱まっていました。義昭には将軍家の血筋があっても、自分の大きな軍はありません。信長には軍があります。両者の利害が合ったことが上洛につながった、とよく説明されます。

物語の後半に茶道具が出てくるのも、この時代らしいところです。名物の茶道具は武将や豪商にとって大きな価値を持つ宝で、松永久秀や今井宗久はそれを差し出して従いました。また、伝えられる話に出てくる堺は海外との貿易で栄えた港町、大津は琵琶湖の港、草津は東海道と中山道が合流する町です。いずれも人と物とお金が集まる場所だったので、この話は信長の先を見る目を示すものとして語られてきました。

漫画版で変えたところ・足したところ

第6話は原典の流れをもとにしていますが、創作の部分も多くあります。立政寺での義昭と信長の会話や、互いの腹の内は原典にありません。佐和山での交渉のやり取り、箕作城の夜の戦いの細かな様子、逃げる六角父子の心情、京の町の人々の反応も、漫画で描き足した部分です。都を朱の長槍で埋める場面も、漫画の見せ場として読むのがよいでしょう。

語り手の太田牛一も、作品の工夫です。牛一は信長に仕えた家臣で『信長公記』の著者ですが、巻1の中で自分を語り手として語る場面はありません。「殿は京の都を、ただ通り過ぎる場所としか見ていなかったのかもしれぬ」という言葉は創作の語りです。泣いて「父」と呼ぶ義昭、位を断って港と道の町を望む信長も、伝えられる話をもとに描いたものです。義昭を感激屋とする性格づけも、原典から言えることではありません。

漫画で読むには

何もかも失った貴人と、一日で城を落とす武将。文字で読むと日付と地名が続く場面も、漫画なら勢いと緊張感でつかめます。「織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―」は全話無料で、会員登録なしで読めます。まずは第6話「副将軍はいらない、港をくれ ―信長の上洛―」で、原典の記録と漫画の創作の違いを確かめながら楽しんでみてください。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
美濃・尾張を治める武将で、義昭を担いで京へ進み、用が済むと早々に岐阜へ帰る上洛軍の総大将。
足利義昭(あしかが よしあき)
討たれた将軍義輝の弟で、もとは奈良の僧の覚慶。流浪の末に信長を頼って将軍となる。
太田牛一(おおた ぎゅういち)
信長に仕えた家臣で『信長公記』の著者。日付や人名、献上品を細かく書き留めた記録者で、漫画では語り手を務める。
六角承禎(ろっかく じょうてい)
南近江の大名で、信長の協力の求めを拒むが、箕作城が落ちると観音寺城を捨てて逃げる。
松永久秀(まつなが ひさひで)
大和の武将で、義輝を討った勢力の一人とされる。名物の茶入「つくもがみ」を差し出して信長に従う。
今井宗久(いまい そうきゅう)
堺の商人で茶人。名物の「松島の壺」と「紹鴎茄子」を差し出して信長に従う。

よくある質問

信長の上洛とは何ですか?

永禄11年(1568年)に、織田信長が足利義昭を担いで大軍で京へ進んだ出来事です。信長は途中の敵方を短い間に退け、義昭は同じ年の10月に将軍となりました。

足利義昭はなぜ信長を頼ったのですか?

兄の将軍義輝が討たれたあと、義昭は寺を脱け出して越前の朝倉義景を頼りましたが、朝倉氏は京へ向かう軍を起こしませんでした。そこで次に望みを託した相手が信長でした。

箕作城はどのくらいで落ちたのですか?

『信長公記』巻1によれば、9月12日の午後から夜にかけての攻撃で、その日のうちに落ちました。これを受けて六角父子は観音寺城を捨て、夜のうちに逃げました。

信長が副将軍を断ったというのは本当ですか?

よく語られる話ですが、今回の調査では『信長公記』巻1の記事として確認できていません。堺・大津・草津に代官を置くことを望んだという話も同じで、後世の言い伝えや解釈の可能性があります。

足利義昭は何代目の将軍ですか?

一般に第15代の将軍とされています。ただしこれは後世の整理による数え方で、『信長公記』の表現ではありません。

漫画を最初から読む(無料)