第11話嵐の海に、畳を敷いた妻オトタチバナヒメと走水の海
嵐の走水の海で、妻オトタチバナヒメは夫ヤマトタケルの務めのために、自ら波の上へ降りていく。悲しみをこらえて東の国をしずめた少年は、帰り道の峠で三度「あづまはや」と叫ぶ。



















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嵐の走水の海で、妻オトタチバナヒメは夫ヤマトタケルの務めのために、自ら波の上へ降りていく。悲しみをこらえて東の国をしずめた少年は、帰り道の峠で三度「あづまはや」と叫ぶ。



















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この話のもとになった神話
倭建命(ヤマトタケル)は、天皇の命令を受けて東の国々をしずめる旅を続けていました。相武(さがむ)の国からさらに先へ進み、走水(はしりみず)の海を船で渡ろうとします。走水は、今の神奈川県の三浦半島と千葉県の房総半島のあいだの海(浦賀水道のあたり)だとされています。ところが、その海峡の神が波を起こしたため、船はぐるぐる回るばかりで少しも前に進めなくなりました。
そのとき、后(きさき)の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)が申し出ます。「わたしが御子の代わりに海に入ります。御子は命じられた務めをやりとげて、天皇にご報告ください」。后は、菅(すげ)で編んだ畳、皮の畳、絁(あしぎぬ)という絹の畳を、それぞれ八枚ずつ重ねて波の上に敷き、その上へ降りていきました。すると荒れていた波は自然におさまり、船は進めるようになりました。
海に入るとき、后は一首の歌を残しています。相武の野で燃える火に囲まれたとき、その火の中に立ちながらも自分を気づかってくれた夫を思う歌です。七日後、后の櫛が海辺に流れ着き、それを納めて御陵(お墓)が作られました。ただし、御陵の場所は古事記には書かれていません。
倭建命はさらに進み、従わない蝦夷(えみし)や、山や川の荒ぶる神々を平定しました。古事記はこの部分を一文でまとめているだけで、戦いの様子はくわしく書いていません。
帰り道、足柄(あしがら)の坂のふもとで食事をしていると、坂の神が白い鹿に姿を変えて現れました。倭建命が食べ残した蒜(ひる。ノビルのような、においの強い草)の切れ端で打つと鹿の目に当たり、鹿はそのまま死んでしまいます。そのあと坂の上に登った倭建命は、三度ため息をついて「あづまはや」と言いました。ここから、その地方を「あづま」と呼ぶようになった、と古事記は地名の由来を語っています。
「あづま」を「吾妻(わが妻)」と考えて、海に消えた后を思い「ああ、わが妻よ」と嘆いたのだ、という解釈が広く知られています。ただし古事記そのものは、誰を思って嘆いたのかをはっきり書いていません。
その後、一行は甲斐(今の山梨県)の酒折宮(さかおりのみや)にとどまります。倭建命が「新治や筑波を過ぎてから、いく晩眠っただろう」と歌いかけると、火の番をしていた老人が「日を重ねて数えれば、夜は九つ、昼は十日です」と歌で答えました。倭建命は老人をほめ、東の国造(くにのみやつこ)に任じました。この歌のやりとりを連歌(れんが)の始まりとみる説も、のちの時代に生まれています。
古事記は712年にまとめられた、日本でもっとも古い歴史書の一つです。中巻には、天皇や皇子たちが国を広げていく物語が収められていて、倭建命の東征はその中でもとくに有名な英雄の物語です。
走水や足柄の場面からは、海や峠には神がいて、通る人を通したり阻んだりすると考えられていたことがわかります。海の神をしずめるために誰かが身をささげるという話の形には、昔の人々が海に抱いていた畏れが表れているとも考えられます。
また、この章は「あづま」という地名の由来を語る話でもあります。『日本書紀』にもよく似た話がありますが、嘆いた場所が碓日(うすひ)の峠になっているなど、細かいところが古事記とは異なります。
漫画では、古事記に書かれていない部分を想像でおぎなっています。たとえば、海に入る前に夫婦が交わす会話は漫画のオリジナルです。古事記には后の申し出の言葉しかなく、倭建命がどう答え、どんな表情をしていたかは書かれていません。
ほかにも、弟橘比売命の姿や衣装、船に乗る供の人々、波の上に畳を敷いて降りていく様子、渡りの神の表現(古事記では姿が描かれていません)、櫛を見つけた人や櫛の形などは漫画での演出です。峠で三度嘆く場面の心の描き方は、先に紹介した通説をふまえた漫画の解釈です。歌の現代語の言い回しも、この作品のために新しく作りました。
「古事記 中巻 ―英雄たちの時代―」は、Manga Portalで全話無料・会員登録なしで読めます。第11話では、嵐の海へ降りていく弟橘比売命と、その思いを胸に東の国をしずめ、峠で「あづまはや」と叫ぶ倭建命の姿を描いています。相武の野火の出来事を知っておくと、后の歌の意味がいっそう伝わるはずです。あらすじを知ったうえで、絵で物語をたどってみてください。
走水の海の神が波を起こし、ヤマトタケルの船が進めなくなったためです。后のオトタチバナヒメは自分から身代わりを申し出て、夫に務めをやりとげて天皇に報告するよう託し、海に入りました。すると荒波は自然におさまったと古事記は伝えています。
ヤマトタケルが足柄の坂の上で三度嘆いて言った言葉で、古事記はこれが東国を「あづま」と呼ぶ由来になったと語ります。「ああ、わが妻よ」と亡き后を思った言葉だという解釈が広く知られていますが、古事記本文は誰を思ったかをはっきり書いていません。
今の神奈川県の三浦半島と千葉県の房総半島のあいだの海、浦賀水道のあたりだとされています。古事記では、ヤマトタケルが相武の国から先へ進むときに渡ろうとした海峡として登場します。
相武の野で火に囲まれたとき、燃える火の中に立ちながらも自分を気づかってくれた夫を思う歌です。この場面より前に、ヤマトタケルが野火の罠から生き延びた出来事を指しています。
甲斐の酒折宮で、ヤマトタケルが「新治や筑波を過ぎて何晩眠っただろう」と歌いかけ、火の番の老人が「九夜十日です」と歌で答えたやりとりです。ヤマトタケルは老人をほめて東の国造に任じました。のちにこれを連歌の始まりとみる説もあります。