第4話許し状に、自分の名前だけがない俊寛(鬼界ヶ島)
三人で流された火山の島に届いた許し状には、俊寛の名前だけがなかった。去っていく船にすがり、浜に一人残された男のもとへ、何年もたってから一人の少年が海を越えて会いに来る。
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妖怪を射落とした伝説の老弓兵が、70歳で最後の反乱を起こす
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この話のもとになった神話
平清盛を倒そうとする相談(鹿ケ谷の陰謀)に加わった罪で、僧の俊寛、藤原成経、平康頼の三人は、薩摩の沖にある鬼界が島へ流されます。『平家物語』によると、島には田畑がなく、米も絹もありません。言葉の通じない住民がわずかにいるだけです。高い山では火が燃え続け、硫黄が満ちていました。
熊野の神を深く信じる成経と康頼は、島の中の場所を熊野の三つの社に見立て、毎日お参りをします。しかし俊寛は生まれつき信心のない人とされ、加わりません。康頼は、ふるさとを思う歌を書いた千本の卒都婆(供養の木の札)を海に流しました。そのうち一本が厳島に流れ着き、都に届いて、後白河法皇や清盛の心を動かします。
やがて清盛の娘・中宮徳子のお産が重くなり、怨霊のしわざだと言われました。それを鎮めるために、罪人を許す大赦が行われます。ところが島に届いた許し状(赦文)には、成経と康頼の名しかありませんでした。俊寛は何度も読み返し、包み紙まで調べますが、自分の名はどこにもありません。
俊寛は「罪も流された場所も同じなのに、なぜ私だけが残されるのか」と嘆きます。成経は都で取りなすと約束し、形見に夜具を、康頼は法華経を残しました。船が出ると、俊寛は綱にすがって背が立たなくなるまで海に入り、「連れて行け」と叫びます。引き離されると、浜に倒れて幼い子どものように足をばたつかせて泣きました。これが「足摺」の場面です。
のちに、俊寛が幼いころから召し使っていた少年・有王が、親にも告げずに一人で島へ渡ります。磯で出会ったのは、やせ衰え、髪が伸び放題になった姿の俊寛でした。俊寛は硫黄を掘って商人と食べ物に替え、魚を釣って生きのびていたのです。有王は、息子が病で、妻が悲しみのあまり亡くなったことを伝え、奈良に残る娘の手紙を渡しました。
俊寛は自ら食を断ち、念仏を唱えながら37歳で亡くなります。有王は亡骸を火葬し、遺骨を首にかけて都へ帰りました。その後、遺骨を高野山に納めて法師となり、娘も出家したと語られています。
原典では、清盛は俊寛を特に憎んでいました。自分の口添えで出世させてやったのに、俊寛は自分の山荘がある鹿ケ谷を謀議の場にした、というのが理由です。恩を仇で返されたという怒りが、ただ一人を許さない決定につながりました。
この話は源平合戦が始まる前、平家の力がもっとも強かったころの出来事です。一人の気持ちで人の運命が決まる様子は、『平家物語』が描く「驕れる者」の姿の一つとも読めます。鬼界が島がどこにあたるかは、鹿児島県の硫黄島とする説が有力ですが、ほかの島とする説もあります。俊寛の物語は、のちに能や浄瑠璃にもなり、長く語り継がれてきました。
漫画は原典の流れに沿っていますが、原典が短くしか書いていない部分を絵と演出でふくらませています。たとえば、火山の煙や硫黄の色、岩場などの島の風景、三人の日々の暮らし、熊野詣を見つめる俊寛の表情や心の中は、漫画で加えたものです。原典は俊寛を「信心がない」と書くだけで、その気持ちは語っていません。
有王の船旅の道中、島で二人が交わした会話の多く、臨終の場面の構図、火葬や帰り道の様子も漫画の創作です。原典にあるのは出来事の要点で、細かなやりとりは描かれていません。人物の顔立ちや服装も、漫画で作ったものです。
許し状に自分の名だけがないと知った瞬間の俊寛、去っていく船、そして何年もたってから会いに来た少年。文字で読むと短い場面も、漫画では表情や島の景色とともにじっくり味わえます。第4話は、Manga Portalの『平家物語 ―源平合戦、驕れる者の最期―』で、全話無料・会員登録なしで読めます。ほかの話とあわせて、平家の栄華と滅びの流れをたどってみてください。
『平家物語』では、清盛が俊寛を特に憎んでいたからだとされます。清盛の口添えで出世したのに、自分の鹿ケ谷の山荘を平家を倒す相談の場にしたことが、恩を仇で返したと受け取られました。
許された二人を乗せた船が島を離れるとき、俊寛が綱にすがって海に入り、引き離されたあと浜で足をばたつかせて泣き叫ぶ場面です。幼い子が母を慕うような姿として描かれています。
鹿児島県の薩摩半島の南にある硫黄島とする説が有力です。原典に山で火が燃え、硫黄が満ちていると書かれていることとも合います。ただし、ほかの島とする説もあります。
島に会いに来た有王から妻と息子の死を聞き、娘の手紙を受け取ったあと、自ら食を断ち、念仏を唱えながら37歳で亡くなりました。有王は遺骨を都へ持ち帰り、のちに法師になったとされます。