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第7話勝っていたのに全力で逃げた夜金ヶ崎の退き口

勝利を目前にした信長に、妹の夫が背いたとの報せが届く。一度は笑い飛ばした男は、重なる報せに「是非に及ばず」と告げ、勝ち戦も面目も置いて闇の山道を京へ走る。

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次回予告 · 制作中第8話 姉川の血

裏切りから二か月。彼は義弟と川の中で斬り合った。

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この話のあらすじ

元亀元年四月二十日、信長は京都を出発して越前へ向かいました。坂本を越えて和邇に陣を取り、高島郡の田中、若狭の熊川、佐柿と進みます。二十五日には越前の手筒山城を攻めて、多くの首を取りました。翌日は朝倉中務大輔が籠もる金ヶ崎城を攻めて降参させ、城から退去させます。疋田城も明け渡され、信長は木目峠を越えて越前の中心部へ攻め入ろうとしました。 そこへ、浅井備前が背いたという報せが届きます。信長は初め、うその話だと考えました。はっきりした縁者であるうえ、江北(近江の北部)一帯を任せているのだから、不満があるはずがないと思ったのです。ところが、事実だという知らせが方々から続きました。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

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この話のもとになった物語

金ヶ崎の退き口とは?あらすじと「是非に及ばず」の意味|信長公記

ひとことで言うと: 金ヶ崎の退き口は、元亀元年(1570年)四月、越前で勝ち進んでいた織田信長が、縁者の浅井備前(長政)の離反を知って撤退を決め、金ヶ崎城に木下藤吉郎を残して、朽木越えで京都へ戻った出来事です。太田牛一の『信長公記』巻3に記されています。

金ヶ崎の退き口のあらすじ(『信長公記』より)

元亀元年四月二十日、信長は京都を出発して越前へ向かいました。坂本を越えて和邇に陣を取り、高島郡の田中、若狭の熊川、佐柿と進みます。二十五日には越前の手筒山城を攻めて、多くの首を取りました。翌日は朝倉中務大輔が籠もる金ヶ崎城を攻めて降参させ、城から退去させます。疋田城も明け渡され、信長は木目峠を越えて越前の中心部へ攻め入ろうとしました。

そこへ、浅井備前が背いたという報せが届きます。信長は初め、うその話だと考えました。はっきりした縁者であるうえ、江北(近江の北部)一帯を任せているのだから、不満があるはずがないと思ったのです。ところが、事実だという知らせが方々から続きました。信長は「是非に及ばず」として、撤退を決めます。

金ヶ崎城には木下藤吉郎を残し、四月の末日に朽木越えの道で退きました。朽木信濃守が信長のために奔走し、信長は京都へ戻ります。城を次々に落とした直後の、急な引き返しでした。

「是非に及ばず」の意味と、この出来事の背景

「是非に及ばず」は、あれこれ言ってもしかたがない、という意味で理解されている言葉です。『信長公記』では、晩年の本能寺の変の場面でも信長の言葉として出てきます。金ヶ崎では、信じたくない報せが事実だと認め、気持ちを切り替えて動く場面で使われています。

戦国時代の武将は、結婚によって家と家を結びつけ、味方を増やしました。信長の妹お市が浅井長政に嫁いだことは、よく知られています。原典がこの場面で信長の油断ではなく「縁者なのになぜ」という考えを書いているのは、そうした結びつきの重さを伝えています。

地図で見ると、越前は進軍の先、近江は京都へ帰る道の側にあたります。近江の北部を治める浅井が敵になれば、帰り道を断たれるおそれがありました。なお「退き口」は、戦場から退くことや、その退却戦を指す言葉です。

有名な話は原典にある? 後世の逸話と諸説

金ヶ崎の退き口には有名な話が多くありますが、『信長公記』のこの箇所に書かれていないものもあります。たとえば、お市が両端を縛った小豆の袋を陣中へ届け、挟み撃ちを知らせたという話は、後世の逸話です。藤吉郎が自分から殿(しんがり。退却する軍の最後尾で敵を防ぐ役)を願い出て、激しい追撃を防ぎ切ったという話も、後世の軍記や通説によるものです。この箇所からわかるのは、藤吉郎が金ヶ崎城に残されたという事実までです。

松永久秀が朽木信濃守を説得して通行を取り付けた、信長がわずかな供だけで逃げ帰った、明智光秀や徳川家康も撤退戦に加わった、といった話も、他の史料や通説として語られるものです。典拠を確かめる必要があるものも含まれます。

浅井が背いた理由についても、朝倉との古い縁を重んじたからだという説が広く知られていますが、この箇所に動機は書かれていません。長政本人の言葉や行動も描かれていないので、本当の心の内はここからはわかりません。

漫画版で変えたところ

第7話「勝っていたのに全力で逃げた夜」は、原典の短い記述をもとに、場面や気持ちをふくらませています。報せを持ち込む使者の姿、知らせが重なっていく緊張感、陣中の空気は漫画で描いた部分です。信長が一度は報せを笑い飛ばす描き方も、「うその話だと考えた」という原典の記述をもとにした表現です。

撤退を決めたあとの信長の心情や独白、藤吉郎との別れの場面、金ヶ崎に残る藤吉郎の決意や表情も創作です。朽木越えの山道の情景、天候や昼夜、同行者の様子、信長と朽木信濃守の対面や会話も、原典の事実を超えて描いています。一方、藤吉郎の戦いの勝敗や戦果については、漫画でも断定しないようにしています。

漫画で読むには

数行で記された撤退の決断が、絵になるとどんな緊張感を帯びるのか。勝ち戦も面目も置いて走る信長の姿は、ぜひこの第7話で確かめてみてください。Manga Portal の『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』は全話無料で、会員登録なしで読めます。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
越前攻めの総大将で、浅井離反の報を初めは信じなかったものの、知らせが重なると「是非に及ばず」として撤退を決めた人物。
浅井備前/浅井長政(あざい びぜん/あざい ながまさ)
北近江を任されていた信長の縁者で、離反の報の当事者だが、この箇所に本人の言動や動機は書かれていない。
木下藤吉郎(きのした とうきちろう)
後の豊臣秀吉で、撤退のときに金ヶ崎城へ残された武将。
朽木信濃守(くつき しなののかみ)
朽木越えで退く信長のために奔走した人物で、「元綱」という名は他の史料から補われる。
朝倉中務大輔(あさくら なかつかさのたいふ)
金ヶ崎城に籠もり、攻められて降参し退去した朝倉方の将で、他の史料から景恒とされる。

よくある質問

金ヶ崎の退き口とは何ですか?

元亀元年(1570年)四月、越前を攻めていた織田信長が、浅井長政の離反を知って京都へ撤退した出来事です。『信長公記』には、金ヶ崎城に木下藤吉郎を残し、朽木越えで退いたと記されています。

「是非に及ばず」とはどういう意味ですか?

あれこれ言ってもしかたがない、という意味で理解されている言葉です。金ヶ崎では、離反の知らせが事実だと認めて撤退を決める場面で記されています。

お市の小豆袋の話は本当ですか?

お市が両端を縛った小豆袋で挟み撃ちを知らせたという話は、後世の逸話とされています。『信長公記』のこの箇所には出てきません。

秀吉は金ヶ崎で殿を務めたのですか?

『信長公記』のこの箇所に書かれているのは、木下藤吉郎が金ヶ崎城に残されたという事実です。自分から志願した話や激しい追撃を防ぎ切った話は、後世の軍記や通説によるものです。

浅井長政はなぜ信長に背いたのですか?

朝倉との古い縁を重んじたからだという説が広く知られています。ただし、『信長公記』のこの箇所に動機は書かれていません。

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