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第10話新年の宴、まだ一皿ある黄金の髑髏

第10話「黄金の髑髏」。「御父」と呼んだ将軍を京から追い、名家と妹の夫の家もふた月足らずで消した信長。翌年の元日、客が帰った広間で、彼は上機嫌に「まだ、さかながある」と告げる。

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この話のあらすじ

元亀4年(1573)、将軍の足利義昭が信長に敵対します。信長は京の上京に火を放って圧力をかけ、一度は和睦しました。しかし7月、義昭は宇治の槇島城で再び兵を挙げます。信長は近江の佐和山で造らせていた大船で琵琶湖を渡って急行し、宇治川を押し渡って城を攻めました。 降伏した義昭は若君を人質に出し、命は助けられて、羽柴秀吉の警固で河内の若江へ送られます。落ちていく姿を人々は「貧報公方」と笑い、牛一は、自分で招いたこととはいえ哀れだという趣旨で書き残しました。同じ7月の末、元号は天正に改まります。 8月、信長は北近江へ出陣し、風雨の夜に自ら馬廻を率いて砦を落としました。

原典信長公記 ―織田信長の生涯― — 日本 · 慶長15年(1610年)ごろ

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この話のもとになった物語

信長公記の黄金の髑髏とは?薄濃の首と朝倉・浅井滅亡のあらすじ

ひとことで言うと: 「黄金の髑髏」の話は、織田信長が天正2年(1574)の元日、前の年に滅ぼした朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首を薄濃(はくだみ)にして、側近だけの酒宴に肴として出したという、太田牛一『信長公記』に記された出来事です。前の年に信長は将軍足利義昭を京から追い、朝倉と浅井の両家も滅ぼしていました。なお「髑髏」は漫画の題名の言い方で、原典では「首」と書かれています。

『信長公記』のあらすじ:将軍の追放から朝倉・浅井の滅亡まで

元亀4年(1573)、将軍の足利義昭が信長に敵対します。信長は京の上京に火を放って圧力をかけ、一度は和睦しました。しかし7月、義昭は宇治の槇島城で再び兵を挙げます。信長は近江の佐和山で造らせていた大船で琵琶湖を渡って急行し、宇治川を押し渡って城を攻めました。

降伏した義昭は若君を人質に出し、命は助けられて、羽柴秀吉の警固で河内の若江へ送られます。落ちていく姿を人々は「貧報公方」と笑い、牛一は、自分で招いたこととはいえ哀れだという趣旨で書き残しました。同じ7月の末、元号は天正に改まります。

8月、信長は北近江へ出陣し、風雨の夜に自ら馬廻を率いて砦を落としました。退く朝倉勢の追撃に遅れた佐久間信盛は信長に叱られ、自分たちほどの家臣はいないという趣旨の言葉を返して、かえって激しい怒りを買います。朝倉勢は刀根山付近で敗れ、信長は越前へ攻め入り、一乗谷は焼かれました。義景は大野郡へ逃れましたが、一族の朝倉景鏡に背かれて自害し、その首は信長に届けられました。

信長は近江へ戻ります。小谷城では、秀吉が夜のうちに京極つぶらという曲輪を取り、久政と長政の連絡を断ちました。久政は自害し、翌日には長政も重臣の赤尾美作守とともに果てます。長政の十歳の嫡男も探し出され、関ヶ原で磔にされました。

元日の宴:最後に出された「珍しい肴」

翌天正2年の元日、京や近隣の国々の面々が岐阜へ祝いに訪れ、酒を賜りました。他国の客が退出すると、席に残ったのは馬廻衆だけです。そこへ、今まで聞いたこともない珍しい肴が出されました。義景、久政、長政の三つの首を薄濃にして、公卿という台に据えたものです。一同はこれを肴に謡い遊び、信長は大いに喜んだ、と原典は記します。

文化・時代の背景:薄濃と「室町幕府の滅亡」

薄濃は、漆を塗った上に金などで彩色することです。信長がなぜ首をそうしたのか、原典は理由を書いていません。勝利を誇るためと読む見方のほか、敵への敬意や弔いの意味があったという説もあります。牛一の筆は、これを珍しくめでたい席として淡々と記すだけです。

義昭の追放は「室町幕府の滅亡」とよく呼ばれますが、これは後世の区分です。義昭は将軍の職を失わないまま京を離れており、二百年余り続いた幕府の終わりという見方は、のちの時代の整理と言えます。焼かれた一乗谷には今も町の跡が遺跡として残り、滅びた家の暮らしをしのぶことができます。

「首で酒を飲ませた」は本当?原典にない話

信長が首を盃にして家臣に酒を飲ませた、という話はよく知られています。しかし『信長公記』にこの話は見えず、『浅井三代記』など後世の書物で語られたものです。原典にあるのは、首を飾って肴として出したところまでです。

漫画版で変えたところ

この漫画は原典の骨組みに沿っていますが、次の点は創作です。まず、晩年の牛一が振り返る語りの形にしました。ただし牛一が宴の席にいたかは原典からわからないので、居合わせたようには描いていません。

馬廻衆の凍った笑顔や止まった盃、子どものように輝く信長の目、「まだ、さかながある」という言葉、布を取る場面も演出です。原典は宴に連なった人々の反応を何も書いていません。義昭が信長を「御父」と呼ぶ書状は、原典のこの範囲で確かめられたものではなく、脚色として扱っています。扇や数珠で見せる最期の場面も創作です。

反対に、全年齢向けの作品なので、長政の嫡男の処刑は本編に入れていません。合戦の細かな経過も短くまとめています。

漫画で読むには

三つの家が消えていく速さと、正月の広間の静けさは、絵で見ると文章とはまた違う怖さがあります。Manga Portal の『織田信長 ―信長公記・魔王と呼ばれた男の生涯―』第10話「新年の宴、まだ一皿ある ―黄金の髑髏―」は、全話無料で、会員登録なしで読めます。あらすじを知ったあとで、金色の見開きをぜひ確かめてみてください。

この話の登場人物

織田信長(おだ のぶなが)
将軍を京から追い、朝倉と浅井を滅ぼして、翌年の元日に三人の首を肴に出した武将。
足利義昭(あしかが よしあき)
信長に兵を挙げて槇島城で降伏し、命は助けられて京を去った室町幕府の将軍。
朝倉義景(あさくら よしかげ)
越前の大名で、一乗谷を捨てて逃れたのち、一族の景鏡に背かれて自害した。
浅井久政(あざい ひさまさ)
長政の父で、小谷城で息子との連絡を断たれて自害した。
浅井長政(あざい ながまさ)
北近江の大名で、父の死の翌日に小谷城で果て、首は京で獄門に懸けられた。
太田牛一(おおた ぎゅういち)
信長に仕えた『信長公記』の著者で、漫画では晩年にこの一年を振り返る語り手になる。

よくある質問

信長が髑髏を盃にしたのは本当?

『信長公記』には、首を盃にしたという記述はありません。原典にあるのは、三人の首を薄濃にして元日の酒宴の肴に出したという話です。盃の話は『浅井三代記』など後世の書物で語られたものです。

薄濃(はくだみ)とは何ですか?

漆を塗った上に金などで彩色することです。『信長公記』は、朝倉義景と浅井父子の首がこの形で元日の席に出されたと記しています。細かな作り方までは書かれていません。

信長の宴に出された三つの首は誰のもの?

朝倉義景、浅井久政、浅井長政の三人です。いずれも前の年の天正元年(1573)に、信長との戦いの中で命を落としました。

室町幕府は1573年に滅んだの?

義昭が京を追われたこの年を幕府の滅亡とする見方が一般的ですが、これは後世の区分です。義昭は将軍の職を失わないまま京を離れました。

家臣たちは首を見て怖がったの?

原典には、馬廻衆の反応は書かれていません。一同が謡い遊び、信長が喜んだと記されるだけです。凍りつく家臣の表情は漫画の演出です。

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