第2話体を縛りつけて、4日半走り続けた浅野内匠頭の切腹と早駕籠
シリーズ第2話。刃傷のその日のうちに切腹を命じられた浅野内匠頭は、静かに最期を迎える。一方、早水と萱野は体を駕籠に縛りつけ、約620kmを4日半で赤穂へ走る。すべての知らせを受け取った大石内蔵助がつぶやいたのは、ただひと言だった。
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最後まで読んでくれてありがとう!
戦うより難しいのは、戦わずに去ることだった
シリーズ第2話。刃傷のその日のうちに切腹を命じられた浅野内匠頭は、静かに最期を迎える。一方、早水と萱野は体を駕籠に縛りつけ、約620kmを4日半で赤穂へ走る。すべての知らせを受け取った大石内蔵助がつぶやいたのは、ただひと言だった。
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戦うより難しいのは、戦わずに去ることだった
この話のもとになった神話
元禄14年3月14日(1701年4月21日)の午前、江戸城本丸の松之廊下で、赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介に斬りつけました。そばにいた梶川与惣兵衛が浅野を抱き止めたため、吉良は額と背中に傷を負いましたが、命は助かりました。浅野が斬りつけた理由は、記録には「遺恨(うらみ)」と言ったと伝わるだけで、くわしいことはわかっていません。
幕府の裁きはとても早いものでした。浅野はその日のうちに、一関藩主・田村右京大夫の愛宕下の屋敷へ、網を掛けた駕籠で送られ、同じ日の夕方に切腹しました。満34歳(数え35歳)でした。のちに赤穂の浅野家は取り潰され(改易)、一方の吉良にはとがめがありませんでした。この処分の差が、のちの四十七士の討ち入りへとつながっていきます。
事件の日、江戸から赤穂へ第一の使者として、早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠で出発しました(『江赤見聞記』)。早駕籠とは、担ぎ手を次々に交代させながら昼も夜も走り続ける、いちばん速い駕籠のことです。二人は約155里(約620km)をおよそ4日半で走り、3月19日の早朝に赤穂へ着きました。
ここで注意したいのは、第一の使者が出発した時点で伝えたのは「刃傷があった」という知らせで、切腹の知らせではなかったことです。続いて第二の使者の原惣右衛門と大石瀬左衛門が19日の夜に着き、主君の切腹と浅野家の改易を伝えました。筆頭家老の大石内蔵助は、これらの知らせを受け取り、家臣たちを城に集めました。
切腹の場面には、本当かどうかはっきりしない話もあります。目付の多門伝八郎が書いた『多門伝八郎覚書』には、庭先での切腹は大名にふさわしくないと自分が異議を唱えたことや、家臣の片岡源五右衛門が最期に主君をひと目見送ることを許され、二人が言葉を交わさずに別れたことが書かれています。ただし、これは多門本人の記録で、自分を良く見せている可能性があるため、信頼性は低いと考えられています。
浅野の辞世(最期に詠んだ歌)は、散っていく桜の花に自分を重ねた歌として知られています。しかし田村家側の記録には出てこないため、本当に浅野が詠んだのかを疑う説もあります。また、萱野三平が途中で故郷を通ったとき、母の葬儀の最中だったのに立ち寄らなかったという話も、後の時代に広まった逸話です。
なお、歌舞伎や人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』四段目では、浅野は「塩冶判官」、大石は「大星由良之助」という役名になり、由良之助が切腹の場に駆けつけて形見の刀を託されます。これは舞台のための創作で、史実の大石はそのとき赤穂にいました。
漫画では、史実の流れをもとに、いくつかの場面を描き足しています。早駕籠の道中で、晒し布で体を縛って揺れに耐える様子や、夜通し走る担ぎ手の姿、城門にたどり着いた早水・萱野の疲れ切った様子は、漫画としての演出です。田村邸の切腹の場の空気や桜の季節の描写、片岡源五右衛門の無言の見送りの場面も、伝承をもとに自由に描いています。
そして、知らせを受けた大石内蔵助が「…殿」とつぶやく場面は、漫画オリジナルの台詞です。原典には、このときの大石の言葉や表情は書かれていません。吉良がとがめを受けなかったと知った家臣たちの反応も、漫画で加えた場面です。
Manga Portalの『忠臣蔵 ―四十七士、雪の夜の誓い―』は、全話無料・会員登録なしで読めます。第2話では、静かに最期を迎える主君と、620kmを命がけで走る家臣たちの姿が、ひとつの物語として描かれています。史実と伝説の違いを知ったうえで読むと、大石のひと言の重みがより伝わるはずです。気になった方は、ぜひ第1話から続けて読んでみてください。
江戸城の中で刀を抜き、吉良上野介に斬りつけたことが重い罪とされたためです。幕府はその日のうちに処分を決め、浅野は田村右京大夫の屋敷で同じ日の夕方に切腹しました。
第一の使者の早水藤左衛門と萱野三平は、約155里(約620km)をおよそ4日半で走りました。3月14日に江戸を出て、19日の早朝に赤穂へ着いたと記録されています。
はい、吉良は斬りつけられた側として手当てを受け、とがめはありませんでした。浅野だけが切腹と家の取り潰しになったこの差が、のちの赤穂浪士の討ち入りにつながります。
散る桜に自分を重ねた辞世が『多門伝八郎覚書』などに残っています。ただ、切腹の場となった田村家の記録には出てこないため、本人の作かどうかを疑う説もあります。
いいえ、舞台用の脚色です。劇では由良之助(大石)が切腹の場に駆けつけますが、史実の大石内蔵助はそのとき赤穂にいて、使者からの知らせで主君の死を知りました。