第6話そこにいるはずだった、48人目萱野三平
主君の死を知らせた急使のひとり、サンペイは故郷の村に戻り、仲間との誓いと、恩人の家への仕官を決めた父への孝行のあいだで追いつめられる。家を抜け出そうとして果たせなかった若者が、主君の月命日の朝に一句を残すまでと、その後に芝居の中で語り継がれていくまでを描く。
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最後まで読んでくれてありがとう!
「もう誓いは不要だ」――そう言われて去った者と、残った者
主君の死を知らせた急使のひとり、サンペイは故郷の村に戻り、仲間との誓いと、恩人の家への仕官を決めた父への孝行のあいだで追いつめられる。家を抜け出そうとして果たせなかった若者が、主君の月命日の朝に一句を残すまでと、その後に芝居の中で語り継がれていくまでを描く。
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「もう誓いは不要だ」――そう言われて去った者と、残った者
この話のもとになった神話
萱野三平重実(かやの さんぺい しげざね)は、摂津国豊島郡萱野村(今の大阪府箕面市)の生まれです。旗本の大島家との縁で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕えるようになったとされています。
元禄14年(1701年)3月14日、内匠頭は江戸城の松の廊下で吉良上野介に斬りつけ、その日のうちに切腹を命じられました。赤穂藩は取りつぶしになります。この大事件を国元の赤穂へ知らせる最初の急使に選ばれたのが、三平と早水藤左衛門でした。二人は江戸から赤穂までおよそ155里(約600キロ)を4日半ほどで駆け抜け、3月19日に赤穂へ着いています。
道中、故郷の近くで母の葬列に出会ったものの、役目を優先して立ち止まらずに通り過ぎた、という話も伝わっています。ただし、これは言い伝えで、確かな記録で確かめられる出来事ではありません。
赤穂城が明け渡されると、三平は浪人となって萱野村の実家へ戻りました。そして、筆頭家老・大石内蔵助を中心とする仇討ちの盟約に加わります。
ところが、父の七郎左衛門重利はこれに強く反対しました。萱野家は大島家と深い縁があり、その家への義理や萱野家の安全を考えたためだと伝えられています。父は三平に、新しい主家に仕えるよう勧めました。父と子がどんな言葉を交わしたのかは、記録に残っていません。
誓いを破ることも、父にそむくこともできない。追いつめられた三平は、元禄15年1月14日、実家で自ら命を絶ちました。数え年28歳。この日は主君・内匠頭の月命日でした。大石あての遺書には、父に逆らえず、盟約も破れないので死を選ぶ、という趣旨の思いがつづられていたといいます。
同じ年の12月14日、四十七人の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りました。その場に三平の姿はありません。漫画の題の「48人目」は、そんな三平の立場を表しています。
三平は俳諧をたしなみ、「涓泉(けんせん)」という俳号を持っていたとされます。最期に残した句が「晴れゆくや 日頃心の 花曇り」です。花曇りとは、桜が咲くころの、うすく曇った空のこと。ずっと心にかかっていた曇りが、ようやく晴れていく――そんな気持ちを詠んだ句と受け取ることができます。
江戸時代の武士にとって、主君に尽くす「忠」と、親を大切にする「孝」は、どちらも守るべき大事な道徳でした。ふだんは両立するはずの二つが正面からぶつかってしまったところに、三平の悲劇があります。
寛延元年(1748年)に初めて上演された『仮名手本忠臣蔵』の五・六段目には、早野勘平という若い侍が登場します。「萱野」と「早野」、「三平」と「勘平」という名前の似かたから、三平が勘平の元の一つになったといわれています。
ただし、恋人おかるとの逢い引き、定九郎や与市兵衛をめぐる事件、誤解から腹を切るという筋は、すべて芝居の創作です。勘平は史実の三平とは別の、物語の中の人物だと考えてください。
史実どおりに描いているのは、急使の出発地(江戸)・到着地(赤穂)と日数、自害の日付、大石あての遺書と辞世があったことです。
一方、父子の会話の場面とせりふは記録がないため、遺書や伝記に伝わる要旨をもとに新しく組み立てています。遺書の文面も原文ではなく、要旨を新しい言葉で書き直したものです。母の葬列は「伝えられる話」として回想のようにぼかして描き、道中の苦しさ、俳句を詠む日々、家族や使用人の人柄、旧暦1月の寒さと「花曇り」の対比なども漫画の演出です。
最後の1ページの芝居の場面は、江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の雰囲気をイメージしたオリジナルの絵です。
第6話「そこにいるはずだった、48人目 ―萱野三平―」は、討ち入りの物語の陰で、誓いと親への思いのあいだで揺れた若者の姿を描いた回です。Manga Portalの『忠臣蔵 ―四十七士、雪の夜の誓い―』は全話無料、会員登録なしで読めます。史実を知ったうえで、三平が最後の朝に何を見つめていたのか、漫画でたどってみてください。
仇討ちの盟約に加わっていましたが、父の七郎左衛門が大島家への義理などから強く反対しました。父にそむくことも誓いを破ることもできず、元禄15年1月14日、討ち入りより前に自害したためです。
「晴れゆくや 日頃心の 花曇り」です。ずっと心にかかっていた曇りが、ようやく晴れていくという気持ちを詠んだ句と受け取ることができます。
『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平は、名前の似かたなどから三平が元の一つになったといわれています。ただし、おかるとの恋や誤解から腹を切る筋は芝居の創作で、史実の三平の話ではありません。
萱野三平と早水藤左衛門の最初の急使は、およそ155里(約600キロ)を4日半ほどで走り、元禄14年3月19日に赤穂へ着いたと伝えられています。
摂津国豊島郡萱野村で、今の大阪府箕面市にあたります。藩が取りつぶされた後、三平はこの故郷の実家に戻り、そこで最期を迎えました。