第12話四十七士の墓は、46しかない赤穂浪士の切腹と泉岳寺
討ち入りを終えた四十六人の浪士は四つの大名家に預けられ、細川家の堀内伝右衛門は彼らの話に耳を傾け、やがて大石から息子への一通の文を託される。春の日に下された裁きは切腹だった。年老いた語り部・寺坂が墓前で語り終え、物語は芝居の幕開けへと受け継がれていく。



















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討ち入りを終えた四十六人の浪士は四つの大名家に預けられ、細川家の堀内伝右衛門は彼らの話に耳を傾け、やがて大石から息子への一通の文を託される。春の日に下された裁きは切腹だった。年老いた語り部・寺坂が墓前で語り終え、物語は芝居の幕開けへと受け継がれていく。



















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この話のもとになった神話
元禄15年12月14日(旧暦)の夜、赤穂の浪士たちは吉良邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭の仇を討ちました。そのあと幕府に届け出た四十六人は、翌15日に大目付・仙石伯耆守の屋敷へ呼ばれ、その夜のうちに四つの大名家に分けて預けられます。細川家に大石内蔵助ら17人、松平家に息子の大石主税ら10人、毛利家に10人、水野家に9人という分け方でした。
浪士たちはおよそ一か月半を預け先の屋敷で過ごします。そして元禄16年2月4日、幕府の使者が四家を訪れ、切腹を言い渡しました。主君の仇討ちだと言っても、仲間を集めて騒ぎを起こし、幕府をおそれなかったのは重い罪だ、という内容です。その日のうちに四家の屋敷で全員が切腹し、亡骸は主君の眠る高輪の泉岳寺に葬られました。
細川家では、藩主の細川綱利がみずから浪士を迎え、とても手厚くもてなしました。食事などがあまりに立派なので、浪士の側から「もっと質素にしてほしい」と頼んだほどだと伝わります。
世話役をつとめた家臣の堀内伝右衛門は、浪士たちとよく言葉を交わし、討ち入りまでの暮らしの苦労や考え、家族への思いを聞いて書きとめました。これが『堀内伝右衛門覚書』で、お預け中の浪士の素顔を知るための大切な記録です。浪士が家族や知人に宛てた手紙や伝言を、伝右衛門がそっと取り次ぐこともあったといいます。のちに浪士の遺髪を故郷の肥後山鹿(熊本県)に持ち帰り、供養したという話も伝わっています。
江戸の人々の中には、浪士を忠義の人としてほめたたえる声が多くありました。儒学者の林鳳岡もその立場だったとされます。一方で、どんな理由があっても勝手に騒ぎを起こすのは法に反する、という考えもありました。荻生徂徠は「義ではあっても個人の理屈であり、法の上では許せない。切腹させて武士の面目を保たせるべきだ」と論じたと伝わります。ただし、その意見を書いたとされる文書が本物かどうかは疑われています。
切腹は、罪人として首を斬られる刑とはちがい、武士の名誉を守る死に方とされていました。罰を与えながらも武士として扱う、という両方を満たす答えだったといえます。なお、将軍綱吉が浪士の命を助けたがっていたという話もありますが、これは俗説とされています。
細川家で最初に切腹したのは大石内蔵助でした。父と別の家に預けられた16歳の主税も、同じ日に松平家で最期を迎えています。「あら楽し」で始まる辞世は大石の作として有名ですが、本当に大石が詠んだのか、いつ詠んだのかには諸説あります。
「四十七士」と呼ばれるのに切腹したのが四十六人なのは、足軽の寺坂吉右衛門が討ち入りのあとで一行から離れたためです。大石の命令で報告に向かったという説と、逃げたという説があり、当時から意見が分かれています。
寺坂はその後も生き、延享4年(1747年)に83歳で亡くなりました。墓は麻布の曹渓寺にありますが、泉岳寺にも供養の墓があります。その翌年の寛延元年(1748年)8月、事件を『太平記』の時代に置きかえた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大坂の竹本座で初演されました。大石は「大星由良助」という名で舞台によみがえり、物語は芝居として広く語り継がれていきます。
第12話は史料をもとにしながら、物語として読みやすくするために創作を加えています。いちばん大きいのは、年老いた寺坂が泉岳寺の墓の前で仲間のことを語る場面で、これは史料にない漫画オリジナルです。そこから『仮名手本忠臣蔵』の初演へつなぐ劇場の様子や客席の顔ぶれも、演出として描いたものです。
幕府の中で徂徠や鳳岡らが議論する場面も、実際の会議の記録はないため、いろいろな意見を一つの場面にまとめています。伝右衛門と浪士の会話の言い回し、大石が息子への文を伝右衛門に託す流れ、切腹の直前に交わす目くばせや心の声も、漫画ならではの表現です。また、細川家以外の三家での暮らしぶりは記録が少ないため、細かな部分は想像で補っています。
記録の行間にある浪士たちの表情や、それを見守る伝右衛門のまなざしは、絵で読むとまた違った重みで伝わってきます。『忠臣蔵 ―四十七士、雪の夜の誓い―』は、Manga Portalで全話無料・会員登録なしで読めます。第12話が気になった方は、雪の夜の討ち入りに至るまでを第1話からたどってみてください。
討ち入りに加わった足軽の寺坂吉右衛門が、そのあと一行から離れたためです。大石の命令で報告に向かったという説と、逃げたという説があります。寺坂は延享4年(1747年)に83歳で亡くなりました。
元禄16年2月4日(旧暦)に、預けられていた細川・松平・毛利・水野の四つの大名家の屋敷で、その日のうちに全員が切腹しました。細川家では大石内蔵助が最初でした。
幕府は、主君の仇討ちと言いながら徒党を組んで騒ぎを起こし、幕府をおそれなかったことを重い罪としました。一方で切腹は武士の名誉を守る死に方とされ、罰しながらも武士として扱う裁きだったといえます。
東京・高輪の泉岳寺です。主君・浅野内匠頭の墓のそばに、切腹した四十六人が葬られています。寺坂吉右衛門の墓は麻布の曹渓寺にあり、泉岳寺にも供養の墓があります。
寛延元年(1748年)に大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃で、赤穂事件をもとにしています。時代を『太平記』の世に移し、大石内蔵助を「大星由良助」とするなど、人物の名前も変えて描いています。