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第3話完璧な策は、夕飯の煙でバレた川中島の戦い(キツツキ戦法)

動かない敵を「キツツキの戦法」で追い落とそうとした軍師カンスケ。だが敵の大将は、城から上がる夕飯の煙ひとつで策を見抜いていた。霧が晴れたとき、目の前には敵の全軍がいた。

19ページ全話無料・会員登録なし

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次回予告 · 制作中第4話 川中島 ―本陣に飛び込んだ騎馬武者―

英語: "A lone rider broke through 8,000 men to reach the warlord. Only later did they learn who he was." 日本語: 本陣に飛び込んだ騎馬武者は、敵の総大将その人だった……らしい。

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この話のあらすじ

山本勘介は三河の牛窪の生まれで、若いころから諸国を回り、兵法や城づくりを学んだ人です。駿河の今川家に長くいましたが、色が黒く、片目で、足も不自由という見た目のせいで召し抱えてもらえなかったと書かれています。そんな勘介を、武田家の重臣・板垣信方が武田晴信(のちの信玄)に推薦しました。信玄は見た目にこだわらず勘介を迎え、約束よりも多い領地(知行)を与えたといいます。こうして勘介は、戦のやり方や城づくりの相談役として重く用いられていきます。 永禄四年(1561年)八月、越後の上杉謙信が大軍で信濃に入り、西条山(妻女山)に陣を取りました。信玄も甲府から出て海津城に入り、両軍はにらみ合いになります。

原典戦国 侍列伝 — 日本 · 史料の成立は江戸時代まで(信長公記は慶長年間〔1600年代初め〕、甲陽軍鑑は江戸初期、関原軍記大成は18世紀初め、本朝武芸小伝は1714〜16年)。根拠にする刊本の刊行は1880〜1916年

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この話のもとになった神話

川中島の戦い あらすじ|山本勘介のきつつき戦法とは

ひとことで言うと: 川中島の戦い(永禄四年・1561年)は、武田信玄の軍師・山本勘介が「軍勢を二つに分けて上杉勢を挟み撃ちにする策」を出しながら、上杉謙信に動きを読まれて本隊が奇襲を受け、勘介も討ち死にした戦いです。江戸時代初めにまとめられた武田家の軍学書『甲陽軍鑑』にくわしく書かれ、この策はのちに「きつつき戦法」の名で広く知られるようになりました。

元の話のあらすじ(『甲陽軍鑑』より)

山本勘介は三河の牛窪の生まれで、若いころから諸国を回り、兵法や城づくりを学んだ人です。駿河の今川家に長くいましたが、色が黒く、片目で、足も不自由という見た目のせいで召し抱えてもらえなかったと書かれています。そんな勘介を、武田家の重臣・板垣信方が武田晴信(のちの信玄)に推薦しました。信玄は見た目にこだわらず勘介を迎え、約束よりも多い領地(知行)を与えたといいます。こうして勘介は、戦のやり方や城づくりの相談役として重く用いられていきます。

永禄四年(1561年)八月、越後の上杉謙信が大軍で信濃に入り、西条山(妻女山)に陣を取りました。信玄も甲府から出て海津城に入り、両軍はにらみ合いになります。ここで勘介は馬場民部とともに策を出しました。軍勢を二つに分け、別働隊が夜のうちに西条山の上杉勢を襲う。驚いて山を下りてきた上杉勢を、八幡原で待つ信玄の本隊が迎え撃ち、前後から挟み撃ちにする、という作戦です。信玄はこの策を採り、九月九日の夜、高坂弾正・馬場らの別働隊が西条山へ向かい、本隊は千曲川を渡って八幡原に陣を敷きました。

ところが謙信は武田の動きを読んでいました。夜のうちに静かに山を下り、千曲川を渡って、九月十日の夜明けには八幡原の武田本隊へ攻めかかったのです。武田方は大苦戦し、信玄の弟・典厩信繁、老臣の諸角豊後守、そして山本勘介が討ち死にしました。やがて別働隊が駆けつけると、上杉勢は兵を引きました。『甲陽軍鑑』は、朝のうちは上杉の勝ち、後からは武田の勝ちとまとめています。

「きつつき戦法」と夕飯の煙の話

この作戦は、キツツキが木の幹をつつき、驚いて出てきた虫を食べる様子にたとえて「きつつき戦法」と呼ばれています。ただし、この名前やたとえが『甲陽軍鑑』の本文そのものにあるのか、後の時代に付いた呼び名なのかは、私たちの調べではまだ確かめきれていません。兵の数(別働隊およそ一万二千、本隊およそ八千)も、よく語られる数字ですが確認中です。

また、「謙信は海津城から上がる夕飯の煙がいつもより多いのを見て、武田が夜に動くと見抜いた」という話や、「夜明けの霧が晴れると、目の前に上杉の全軍がいた」という場面も有名です。これらは広く伝わっている話ですが、原典のどこに書かれているかはまだ確認できていないため、ここでは「伝え」として紹介します。

この話が伝えていること(時代の背景)

川中島では、武田と上杉が十年以上にわたって何度もぶつかりました。1561年の戦いはその中でいちばん激しかったとされます。『甲陽軍鑑』は武田家の側から書かれた本で、信玄を名君として描きながら、敵の謙信も優れた大将として書いています。

この話の心に残るところは、見た目で人を判断しなかった信玄と、その恩に応えようとした勘介の関係です。そして、どんなによく考えた策でも、相手が上回れば崩れてしまうという戦の厳しさも伝えています。なお『甲陽軍鑑』は事実と違う点もあるとされ、勘介も実在を疑われたことがありました。のちに「山本菅助」の名が出てくる古い手紙が見つかり、実在の人物と考えられるようになっています。

漫画版で変えたところ

漫画では、勘介の心の声(策を出す前の迷い、策が外れたと気づいたときの思い、最期の覚悟)を描いています。これは原典にはない創作です。謙信が夕飯の煙に気づく場面、上杉勢が音を立てずに山を下りる様子、霧が晴れて上杉の旗がずらりと並ぶ見開きも、伝えをもとにした演出です。

「きつつき」のたとえは、鳥と虫の絵を使った語りの説明として入れました。勘介や信繁の最期は、霧の中の遠景や倒れる旗で暗示し、むごい場面は描いていません。人物の顔や鎧、旗のデザインは漫画のオリジナルで、家紋(武田菱、上杉の竹に雀)だけを史料に合わせています。

漫画で読むには

完璧に見えた策が、ひとすじの煙から崩れていく――第3話は、その緊張と、霧が晴れた瞬間の衝撃を一気に味わえる回です。文章で流れをつかんだあとに読むと、勘介の表情ひとつひとつがより胸に迫るはずです。『戦国 侍列伝 ―天下を賭けた男たち―』は全話無料、会員登録なしで読めます。気になったら、ぜひこのページの漫画からどうぞ。

この話の登場人物

山本勘介(やまもと かんすけ)
武田信玄に仕えた軍師。見た目で今川家に断られたが信玄に重く用いられ、川中島で挟み撃ちの策を出して討ち死にする。
武田信玄(たけだ しんげん)
甲斐の大名。勘介を見た目にこだわらず召し抱え、川中島では八幡原に本陣を置いて上杉勢の攻撃を受ける。
上杉謙信(うえすぎ けんしん)
越後の大将。西条山に陣取り、武田の策を見抜いて夜のうちに山を下り、夜明けに武田本隊を攻めた。
武田典厩信繁(たけだ てんきゅう のぶしげ)
信玄の弟。八幡原で本隊を守って討ち死にし、『甲陽軍鑑』ではその死が深く惜しまれている。
馬場民部(ばば みんぶ)
武田の主な武将の一人。勘介とともに軍勢を分ける策を出し、別働隊に加わった。
高坂弾正昌信(こうさか だんじょう まさのぶ)
海津城を任された武将で、別働隊の一人。『甲陽軍鑑』を語った人とされる。

よくある質問

きつつき戦法とはどんな作戦?

軍勢を二つに分け、別働隊が夜に山の上の敵を襲い、驚いて下りてきた敵を待ちかまえる本隊と挟み撃ちにする作戦です。キツツキが木をつついて出てきた虫を食べる様子にたとえた呼び名で、1561年の川中島の戦いで武田方が使ったとされます。

川中島の戦いはどちらが勝った?

はっきりした決着はついていません。『甲陽軍鑑』は、朝のうちは上杉の勝ち、別働隊が駆けつけた後は武田の勝ちとまとめています。

山本勘介(勘助)は本当にいた人?

『甲陽軍鑑』以外に記録が少なく、実在を疑われた時期がありました。のちに「山本菅助」の名が出てくる古い手紙が見つかり、今では実在した人物と考えられています。ただし軍鑑に書かれた活躍がどこまで事実かには議論があります。

謙信はどうやって武田の策を見抜いたの?

海津城から上がる夕飯の煙がいつもより多いのを見て、武田が夜に動くと読んだという話が広く伝わっています。ただしこの話が原典のどこに書かれているかは確認中で、ここでは伝えとして紹介しています。

信玄と謙信の一騎討ちは本当にあったの?

白い布で頭を包んだ騎馬武者が信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配で受けたという話があり、その武者が謙信だったと言われています。ただし確かな証拠はなく、伝えの一つとして考えるのがよいでしょう。

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