この話のもとになった神話
川中島の戦い あらすじ|信玄と謙信の一騎討ちとは?『甲陽軍鑑』で解説
ひとことで言うと: 川中島の戦い(1561年)は、武田信玄の本隊が、霧が晴れた朝に目の前に現れた上杉輝虎(謙信)の大軍に襲われ、弟の信繁や山本勘助を失いながらも持ちこたえた戦いです。乱戦のさなかに一騎の武者が信玄の床几に斬りかかり、あとで聞くとそれは輝虎だったと『甲陽軍鑑』は伝えています。
『甲陽軍鑑』に書かれた川中島の戦いのあらすじ
永禄4年(1561年)の秋、上杉の軍勢は信濃の妻女山に陣を取り、武田方は近くの海津城に入ってにらみ合いました。武田方では山本勘助らの考えた作戦が採られます。高坂弾正たちの別働隊が夜のうちに妻女山へ向かい、山から追い落とされてきた上杉勢を、八幡原で待つ信玄の本隊とはさみ撃ちにするという手はずでした。この作戦は、のちに「啄木鳥(きつつき)の戦法」と呼ばれるようになりますが、この呼び名は後の時代に広まったものとされています。兵の数は、別働隊が約一万二千、本隊が約八千と語られることが多いものの、細かい数字には確かめるべき点が残っています。
ところが輝虎はこの動きを見抜き、夜のうちに山を下りて千曲川を渡っていました。海津城から上がる炊事の煙で気づいたという話がよく知られていますが、これは通説として伝わるものです。夜が明けて霧が晴れると、武田本隊の目の前には上杉の大軍がいました。
本隊は苦しい戦いになり、信玄の弟の典厩信繁、作戦を立てた山本勘助、老臣の諸角豊後守らが討ち死にします。やがて妻女山から戻った別働隊が上杉勢の背後を突き、上杉勢は善光寺の方へ退きました。前半は上杉、後半は武田の勝ちという見方が『軍鑑』にもとづいて語られ、引き分けに近い結末とされています。
名乗らない武者が信玄に斬りかかった場面
この戦いでいちばん有名なのが、いわゆる「信玄と謙信の一騎討ち」です。『甲陽軍鑑』では、乱戦のさなか、一騎の武者が抜き身の太刀を手にまっすぐ信玄の床几まで乗りつけ、三度斬りつけたと書かれています。萌黄色の胴肩衣を着て白い布で頭を包み、月毛の馬に乗っていたと広く伝わっています。
武者は名乗りませんでした。本陣を守る者が槍で突きかかると、槍は外れて馬に当たり、驚いた馬とともに武者は走り去ります。槍を突いたのは原大隅という者だとされますが、人名などには確かめるべき点があります。そして「あとで聞けば、あれは輝虎だった」と、うわさを聞いたような形で記されています。
信玄が軍配団扇で太刀を受け、あとで団扇に八か所の傷が見つかったという話もよく知られています。ただ、今回調べた範囲の原典ではまだ確かめられていません。また、斬りかかったのは謙信本人ではなく上杉の家臣だったという説もあります。
時代の背景と『甲陽軍鑑』という本
戦国時代、甲斐の武田と越後の上杉は、北信濃をめぐって川中島で何度も戦いました。1561年の戦いはその中でも最大の激戦で、「第四次川中島の戦い」や「八幡原の戦い」とも呼ばれます。この年、謙信の名は政虎でしたが、『軍鑑』は輝虎と書いています。
『甲陽軍鑑』は、武田の家臣・高坂昌信が語った話として伝わり、小幡景憲がまとめたとされる本です。武田家の戦いや家臣の心がまえを伝える本として江戸時代に広く読まれましたが、史実と違う点もあると指摘されています。歴史の記録というより、武田の側から語られた「物語」として読むと楽しめます。
漫画版で変えたところ・足したところ
漫画では、霧の濃さや音、朝の光といった情景や、伝令が知らせを届ける順番をくふうして描いています。ただし、討ち死にした人たちの顔ぶれは原典のとおりです。
信玄の心の声や表情、床几から動かない姿、武者と信玄の目が合う一瞬、名もない旗本たちのせりふ、そして最後に信玄が去った武者を思う場面は、漫画で足したものです。原典は、信玄の気持ちについてほとんど何も書いていません。刀と軍配の打ち合いを大きく見せる場面は、史実をもとにしたフィクションとして楽しんでください。
漫画で読むには
霧が晴れた瞬間の驚きや、名乗らない一騎が本陣に飛び込んでくる緊張は、絵で見るとよりはっきり伝わります。『戦国 侍列伝 ―天下を賭けた男たち―』第4話は、このページの上から読めます。全話無料で、会員登録もいりません。あらすじを知ったうえで、信玄の本陣からながめた川中島の朝を、漫画で体験してみてください。
この話の登場人物
- 武田信玄(たけだ しんげん)
- 武田方の総大将で、八幡原の本陣で床几に座って指揮をとり、斬りかかられても生き延びた。
- 上杉輝虎(うえすぎ てるとら)=謙信(けんしん)
- 上杉方の総大将で、夜のうちに妻女山を下り、霧の中から武田本隊を襲った。
- 名乗らない騎馬武者(きばむしゃ)
- 信玄の床几まで乗りつけて三度斬りつけた一騎で、あとで聞くと輝虎だったと伝わる。
- 武田信繁(たけだ のぶしげ)
- 信玄の弟で「典厩」と呼ばれた名将。この戦いで討ち死にした。
- 山本勘助(やまもと かんすけ)
- 別働隊の作戦を考えた武田の家臣で、この戦いで討ち死にした。
- 高坂昌信(こうさか まさのぶ)
- 妻女山へ向かった別働隊の将の一人で、『甲陽軍鑑』の語り手とされる人物。
よくある質問
川中島の戦いで信玄と謙信は本当に一騎討ちをしたの?
『甲陽軍鑑』には、名乗らない武者が信玄に斬りかかり、あとで聞けば輝虎(謙信)だったと書かれています。ただし伝え聞いた形の記述で、斬りかかったのは上杉の家臣だったという説もあり、本当かどうかははっきりしていません。
啄木鳥(きつつき)の戦法とは?
別働隊が山の上の敵を後ろからつついて追い出し、山のふもとで待つ本隊とはさみ撃ちにする作戦のことです。山本勘助らが考えたとされますが、「啄木鳥」という呼び名は後の時代に広まったものとされています。
川中島の戦いはどちらが勝ったの?
前半は上杉が押し、後半は戻ってきた武田の別働隊が上杉を退かせたので、引き分けに近いと語られます。武田は信繁や勘助など大事な家臣を失いました。
川中島の戦いはいつ、どこであった?
いちばん有名な戦いは永禄4年(1561年)の秋で、今の長野市にある八幡原が戦場です。武田と上杉は川中島で何度も戦っていて、これは第四次の戦いにあたります。
『甲陽軍鑑』とはどんな本?
武田家の戦いや家臣の心がまえを伝える本で、高坂昌信の話を小幡景憲がまとめたとされます。江戸時代に広く読まれましたが、史実と合わない点もあると言われています。
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