この話のもとになった神話
和泉式部「貴船の蛍」とは?あらすじと神の返歌をわかりやすく ひとことで言うと: 和泉式部「貴船の蛍」は、恋人が通ってこなくなった頃に貴布禰(貴船)の社に参った和泉式部が、御手洗川の蛍を「わが身から抜け出した魂か」と詠むと、貴船の明神が男の声で返歌をした、と伝えられる話です。出典は平安時代の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』の神祇の部で、原典には2首の歌と短い説明文だけが残っています。
元の話のあらすじ(『後拾遺和歌集』に残るもの) この話は、1086年に藤原通俊がまとめて天皇に差し出した『後拾遺和歌集』の、神さまにかかわる歌を集めた「神祇」の部に入っています。歌の前に置かれた説明文(詞書)によると、和泉式部は、男に忘れられていた頃、つまり恋人が通ってこなくなっていた頃に、都の北の山にある貴布禰の社へお参りしました。そこで御手洗川に蛍が飛んでいるのを見て、一首の歌を詠みます。
すぐあとには、それに答える歌が並んでいます。歌のうしろに付けられた注(左注)は、これは貴布禰の明神の返歌で、男の声で和泉式部の耳に聞こえたと言い伝えられている、と書いています。「言い伝えている」という書き方なので、編者自身も伝え聞いた話として記しているわけです。
原典にあるのは、この2首と詞書・左注だけです。なぜお参りしたのか、相手の男が誰なのか、そのあと恋がどうなったのかは、どこにも書かれていません。
二首の歌の意味 和泉式部の歌は「物おもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」。恋のことで思い悩んでいると、沢を飛ぶ蛍の光さえ、自分の体からふらふらと抜け出していく魂のように見えてしまう、という気持ちを詠んでいます。「あくがる」は、心や魂が本来いる場所から離れてさまよう、という意味の言葉です。
返歌は「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかり物な思ひそ」。山奥で激しく流れ落ちる滝のしぶきが玉のように飛び散る、その「玉」に「魂」を重ねて、魂が散ってしまうほど思いつめてはいけないよ、となぐさめ、たしなめる歌です。蛍の光を魂と見た女に、神は水しぶきの玉で答えた、という美しい対になっています。
この話が伝えていること(時代・文化の背景) 平安時代の貴族の恋は、男が女の家へ通う形がふつうでした。男が来なくなれば、女は待つことしかできません。詞書の「男に忘られて」という短い言葉には、そうした時代の恋のつらさがにじんでいます。
また当時は、強く思い悩むと魂が体から抜け出してしまう、と考えられていました。和泉式部の歌は、その考え方を蛍の光に重ねた一首です。そして、人の歌に神が歌で答えたという話が、天皇の命で作られた和歌集に収められていることからは、歌が神にも届く大切なことばだと考えられていたことがうかがえます。なお、同じ話は『俊頼髄脳』など後の時代の歌の本にも出てくるとされますが、細かな違いについてはここでは立ち入りません。
漫画版で変えたところ 原典はとても短いため、漫画ではたくさんの場面を足しています。前半の、来なくなった人を待つ日々や、返事の来ない手紙、さびしい部屋の様子はすべて創作です。お参りの理由も原典にはないので、漫画で決めています。「恋の願いをかなえる貴船の神」というイメージも、後の時代に広まったものです。
夏の夜の山道や谷川の音、闇いっぱいに飛ぶ蛍、魂が抜け出していくような絵の表現も漫画の演出です。神の声がどこから、どんな間で聞こえたのか、聞いたあと女がどうしたのか、山を下りる結末も、原典には書かれていません。相手の男は、藤原保昌だとする説もありますが、漫画では採らず、後ろ姿や袖で暗示するだけにしています。
漫画で読むには Manga Portal のシリーズ「恋と妖し ―大人の古典夜話―」第11話「恋の歌に、闇が返事をした」では、たった2首の歌から、待つ女が闇の中で返事を受け取るまでの一夜を描いています。千年前の恋の歌が、どんな情景の中で生まれたのかを想像しながら読むと、歌の意味もぐっと身近になるはずです。全話無料・会員登録なしで読めるので、気になった方はこのページの漫画からどうぞ。
この話の登場人物 和泉式部(いずみしきぶ) 平安時代の歌人で、恋人が通ってこなくなった頃に貴船の社へ参り、蛍を自分の魂かと詠んだ、この話の主人公。 男(おとこ) 和泉式部のもとへ通わなくなった相手で、原典には名前も身分も書かれておらず、話の場面には登場しない。 貴布禰の明神(きふねのみょうじん) 貴船の社の神で、和泉式部の歌に男の声で返歌をしたと伝えられるが、姿については何も書かれていない。
よくある質問 和泉式部の「物おもへば沢の蛍も」はどんな意味? 恋に思い悩んでいると、沢を飛ぶ蛍の光まで、自分の体から抜け出してさまよう魂のように見える、という意味です。恋人が通ってこなくなった頃、貴船の社で詠んだ歌とされています。
貴船の神の返歌はどんな内容? 「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかり物な思ひそ」という歌で、滝のしぶきが玉と散るように、魂が散ってしまうほど思いつめるな、となぐさめる内容です。男の声で和泉式部の耳に聞こえたと言い伝えられています。
この話の出典は何? 1086年にまとめられた勅撰和歌集『後拾遺和歌集』の神祇の部です。和泉式部の歌と神の返歌が、短い説明文とともに並べて収められています。
和泉式部を忘れた男は誰? 原典には「男」とあるだけで、名前は書かれていません。藤原保昌とする説もありますが、確かなことはわかっていません。
貴船神社は昔から縁結びの神だったの? 原典には、和泉式部が何を願ってお参りしたのかは書かれていません。貴船の縁結びのイメージは、この話などをもとに後の時代に広まったものと考えられます。
漫画を最初から読む(無料)